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誰も獲物を取りに来ない網 — タイ、ゴーストネットが3Dプリンターの糸になるまで

浜辺を歩くのが好きな化学者がいる。潮の匂い、海の色。けれど彼にはどうしても見過ごせないものがあった。砂の上に散らばるプラスチックごみ——水のボトル、ビニール袋の破片、布きれ、日用品のかけら。なかでも気にかかったのが、打ち上げられた漁網だった。

Fishing net
Image by Dimitris Vetsikas from Pixabay

誰も獲物を取りに来ない網

捨てられた漁網は「ゴーストネット」と呼ばれる。チュラロンコン大学石油石油化学カレッジのナッタポン・リサングッド博士は、その名の由来をこう説明する。幽霊のように、あてもなく海を漂う。そして漂った先で、その海域の生きものに害をなす。

「漁網が捨てられたり、海で偶然失われたりしても、それは使われていたときと同じように海の動物を捕らえ続けます。違うのは、今度は誰も獲物を取りに来ないということです。網に絡まった動物たちは、たいてい生き延びられません」

そして博士は、こう付け加える。ウミガメや魚が網に絡まった映像をメディアで目にすることはあるが、実際にはあれは海面下で起きていることのごく一部にすぎない、と。

もう一つの問題は、マイクロプラスチックである。「網は日光や波、海の環境によって時間をかけて劣化し、プラスチックの繊維が少しずつ砕けてマイクロプラスチックになります。それが海水中に拡散して蓄積し、プランクトンや稚魚のような小さな生きものに取り込まれる。そして食物連鎖を上へ上へと運ばれ、大型の海洋動物に蓄積し、最終的には魚介類を食べることで人間のもとへ戻ってくるかもしれません」

リサングッド博士の本来の専門は、これとは違う。3Dプリント用の材料開発である。組織工学のためのハイドロゲル素材から、医療機器向けの柔らかい素材まで。医療分野が主戦場だ。それでも海への愛着と、魚介類の安全への懸念が、この人を別の仕事に向かわせた。

すでに売られている。ただし、安く

ここで、この話の前提を押さえておきたい。ゴーストネットが放置されているだけの国、という話ではない。

「タイでは漁網のリサイクルはすでにある程度行われていて、地元の漁師が古い網を業者に売っています。ただし、これらの網のナイロンは、3Dプリントのような先端技術にはまだ使われていません」

つまり、回収の流れは存在する。けれど行き先が限られているから、値がつかない。用途が広がらなければ、集める人も増えない。集まらなければ、海に残る。

そこで博士が立ち上げたのが「漁網由来ナイロンの3Dプリント技術へのリサイクル試作技術開発」という研究プロジェクトである。2025年6月に始まった。資金は石油化学・材料技術に関する研究拠点から出ており、化学メーカーのタイ拠点が再生ナイロンのペレットを提供して研究にも協力している。国の科学技術開発機関の研究者も加わっている。

網が、糸になるまで

漁網を3Dプリンター用のフィラメントに変える工程は、一足飛びにはいかない。

まず選別と洗浄。回収した網から、鉛のおもり、浮き、発泡材、ロープを取り除く。網にこびりついた土や砂、石、貝殻も落とす。そして念入りに洗う。ここが最初の関門である。大量の水と、広い場所が要る。地域で実際にやろうとするなら、水の系統と洗浄設備の入念な計画が欠かせない、と大学の記事は指摘している。

乾いて清潔になった網は、粉砕機で細かく砕かれ、次の工程で溶かすのに適した大きさのフレークに選り分けられる。それを添加剤と混ぜながら溶かし、再生プラスチックのペレットにする。最後にペレットをもう一度溶かし、口金から押し出して細長い糸にし、引き取り機で引いて直径約1.75ミリの均一なフィラメントに仕上げる。家庭用にも普及しているFDM方式の3Dプリンターの規格に合わせた太さだ。

なぜ、いったんペレットにするのか。博士の答えが、この技術の本質を突いている。

「受け取る網は一回ごとに出どころがわかりません。だから正確な性質もわからない。先にペレット化しておけば、最終製品の品質と均質性をずっとうまく制御できるのです」

どこの海から来たかわからないものを、工業製品の原料にする。そのための一手間である。

最初の行き先は、バイクの部品

できたフィラメントを何に使うのか。研究チームがまず狙っているのは、自動車分野の試作部品、たとえばオートバイの部品だという。高い強度と軽さが求められる、規模は小さいが確かな需要のある市場である。

再生プラスチックは新品の樹脂と性質が異なるが、適切な添加剤と配合の調整によって、機械的強度や造形のしやすさを新品由来のフィラメントに近づけられる、というのが技術上の要点だ。

置き換えられているのは、素材だけではない。この網はもともと、安く買い叩かれる廃棄物だった。それが工業部品の原料になれば、買い取り価格が変わる。

三つの壁

もっとも、道は平坦ではない。博士自身が三つの課題を挙げている。

品質のばらつき。地域によって、網は古さも劣化の度合いも違う。土や重金属による汚染の程度も違う。だから原料の性質が一定せず、そのままでは工学的な用途に使いにくい。ペレット化が不可欠なのは、この理由による。

洗浄に使う水。ここは正直な記述で、大学の記事はこう書いている。網を洗うには大量の水と広い場所が必要で、それは環境の持続可能性という原則と衝突しうる。将来的には、より効率的で資源を使わない工程へ改善しなければならない。海をきれいにするために、水を大量に使う。この矛盾を、研究する側が先に認めている。

市場の信頼。高い品質基準を満たしたとしても、再生材料でできているというだけで不安を覚える顧客はいる。これを解くには実際の使用試験と、公式の品質認証が要る。

第3段階に、漁村がある

この記事で、いちばん正直に書いておかなければならないことがある。

漁村への技術移転は、まだ始まっていない。

計画は3段階に分かれている。第1段階は製造工程と配合の開発で、約6〜10か月。実用に耐えるフィラメントを押し出せるようになることと、民間や研究機関との協力網を作ることが目標。第2段階は量産化と市場検証で、さらに4〜5か月。供給網を整え、フィラメントの押出を専門とする受託製造会社に材料を渡し、包装して市場に出して顧客の反応を集める。

そして第3段階。ここでようやく、漁村が登場する。製品が市場で良い反応を得たら、プロジェクトを漁業コミュニティへ直接広げ、知識と基礎的な加工技術を移転する。洗浄、乾燥、一次粉砕といった工程を漁師自身ができるようになれば、すでに手元にある材料に付加価値をつけ、より品質の高い形で売れるようになる。

順番が逆ではないか、と思う人もいるかもしれない。先に漁村を巻き込むべきではないか、と。ただ、市場のないまま「これで稼げます」と技術だけ渡すことのほうが、たぶん残酷である。売り先が確かめられてから渡す。その慎重さは、誠実さの一つの形だと思う。

博士は、プロジェクトの狙いをこう語っている。

「信頼できる市場ができれば、より多くの古い網が集められ、買い取り価格も上がり、漁師たちの得るものも増えます。そしてもっと大事なことに、私たちの海はきれいになる。これがこのプロジェクトの本当の目標です。単に新しい製品を作ることではなく、環境と、地域と、産業のすべてが一緒に利益を得られる持続可能な仕組みを築くことなのです」

そしてもう一言。「このプロジェクトは、実験室の中だけでなく、地域と環境にまで届く本物の変化を生み出す機会です」

祈りによせて

捨てられたものに、値がつく。それだけの話に見えるかもしれない。けれど、値がつくかどうかで、拾いに行く人がいるかどうかが決まる。海に残るか、陸に戻るかが決まる。

これまでこのサイトでは、地域の人々が自分たちで何かを決める話をいくつも紹介してきた。今回の話は、まだそこまで行っていない。技術は大学にあり、漁村はその外にいる。三つの段階を全部越えなければ、洗浄の技術も、付加価値も、漁師の手には渡らない。越えられるかどうかは、まだわからない。

それでも、この研究には見どころがある。医療材料を専門とする化学者が、浜辺を歩いていて目についたものから始めたということ。そして目指す先が、自分の論文でも大学の名声でもなく、漁師が網を高く売れる状態だということ。

網は、もともと海から糧を得るための道具だった。それが海を痛める幽霊になった。もう一度、糧を得るための道具に戻れるかもしれない。まだ研究室の中の話だとしても、その方向を向いていることには意味がある。

誰かの見過ごせなかったものが、いつか誰かの暮らしを支えますように。そして海が、少しずつ静かになりますように。

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参考・引用元

  • チュラロンコン大学「From Fishing Nets to Filament: Chulalongkorn University's Marine Waste Recycling Innovation to Address Environmental Problems」(2026年3月6日、執筆Yada Harirakphithak):chula.ac.th
  • 石油化学・材料技術に関する卓越研究拠点(PETROMAT):petromat.org

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