92万5,088枚。オーストラリア北部、西アーネムランドの岩の大地に仕掛けられたカメラが撮りためた写真の数です。そのうち動物が写っていたのは、17万2,290枚でした。
残りの75万枚あまりは、風に揺れた草や、通り過ぎた影が写っただけの「空振り」です。それを一枚ずつ人の目で確かめてきたのが、この土地の先住民レンジャーたちでした。
2021年、そこにAIを入れる話が持ち上がります。ただし、この記事で追いたいのは「AIが何を減らしたか」ではありません。それを入れるかどうか、どんな条件でなら入れていいかを、誰が決めたかです。
1万4,000平方キロの、岩と峡谷
ワードデケン先住民保護地域は、カカドゥ国立公園のすぐ東に広がる1万4,000平方キロ超の土地です。地元のナワルデケンの人々は、この岩と峡谷の土地をクワルデワルデと呼びます。ビニンジ・クンウォク語を話す36の氏族が所有し、レンジャーは3つの遠隔集落を拠点に働いています。
動物を意味する「マイ」の名を冠した監視事業は、2017年に始まりました。伝統的所有者たちからの要請によるものです。目的は二つあって、ひとつは氏族の土地ごとに重要な種の状況を把握し回復させること。もうひとつが、伝統的所有者と、ビニンジ(男性)・ダルク(女性)のレンジャーに、意味のある雇用と関与を確保することでした。最初から、生態学と雇用は切り離されていません。
最初に出たのは、懸念だった
2021年の6月と7月、研究チームは3つの集落を回り、上位の伝統的所有者たちと協議しました。
そこで最初に出されたのは、期待ではなく条件と懸念でした。AIの統治には安全策が要る。そして——AIを入れれば、地元の雇用が減るのではないか。
同時に、機会も挙げられました。訓練と仕事の道筋を広げられるかもしれない。カントリー(自分たちの土地)で過ごす時間を増やせるかもしれない。マイについてのナワルデケンの知識と統治を強められるかもしれない。賛成と反対ではなく、条件の交渉として始まっているのが、この事例の特徴です。
2022年には大学と土地管理会社の理事会のあいだで研究協定が結ばれ、先住民の文化的・知的財産権の保護と、ワードデケンのデータ主権が明記されました。技術の選定は、理事会と小委員会、そして参加するレンジャーたちが関わる形で進みます。
選ばなかったもの
何を選んだかより、何を選ばなかったかのほうが雄弁です。
定額制のクラウドサービスは外されました。理由は二つ。限られた事業資金が地元の雇用から使用料へ流れてしまうこと。そしてもっと単純に、遠隔地では使えないこと。あるレンジャーは、天気でインターネットが左右され、つながらなければデータの読み書きができないという趣旨を述べています。
データを外部と共有する形の仕組みも避けられました。伝統的所有者たちは、カメラの画像が無関係の第三者に再利用されうることを懸念したからです。ただしこれは難題も生みます。既存のAIは国際的なデータで学習されており、この土地の動物を見分けさせるには、結局この土地の画像を差し出す必要がある。
使い慣れたデータベースも変えませんでした。画像の処理は、すでに二つの集落でダルク・レンジャーの仕事として定着していました。彼女たちは自分の操作に自信を持ち、互いに教え合える段階にあり、非先住民の生態学者の監督なしにこの作業を完結できること自体が、自立の核だったのです。AI導入と同時にソフトを乗り換えれば、その積み上げが崩れる。だからAIのほうを既存の仕組みに合わせて組み込む、という順序になりました。
もうひとつ、外からは見えにくい原則があります。2018年以来、ある氏族の土地で撮られたデータの処理には、その土地のジュンカイ(管理の責任を負う立場の人)が関わることが望まれてきました。誰がその画像を見るかは、文化的な責任の問題なのです。だからこそ伝統的所有者たちは、判断を「ブラックボックス」——中身が使い手にも、時に作り手にもわからない仕組み——に委ねることに強く慎重でした。
選んだのは、いちばん控えめな道具
2021年末に導入されたのは、メガディテクターという無料の検出モデルでした。世界中の何百万枚もの画像で学習されたもので、手元のサーバーに置いて使えるのが決め手のひとつです。データは利用者の手元に残る。
そしてこのモデルがするのは、種の判定ではありません。「人/動物/車両/何も写っていない」の4つに分けるだけです。動物が何であるかを決めるのは、これまでどおり人間の側に残されました。
数字は、思ったほど単純ではない
2021年7月から2023年1月まで、68人のレンジャー(ダルク60人、ビニンジ8人)が作業時間を記録しました。ダルクが労働力の88%を占め、記録された時間の95%を担っています。
AI導入の効果は明確でした。確認すべき画像は92万5,088枚から17万2,290枚へ、81.4%減少。処理にかかる期間はおよそ6か月から2か月に短縮。2週間あたりの平均作業時間は52.6時間から41.8時間になりました。
ここで普通なら「では仕事が減ったのか」という話になります。ところが記録が示したのは逆でした。
AI導入前、この事業で記録された作業は「マイの同定」117時間だけでした。導入後は、マイの同定が196時間に増えたうえで、そこに言語の記録事業37時間、ポスター報告43時間、ワークショップ11時間、動画制作4時間、ニュースレター1時間が加わっています。空振り画像を捨てる時間が消えた分、仕事はむしろ増え、種類が広がった。バイリンガルでの画像タグ付けは、それまで参加していなかった3つ目の拠点にも広がりました。
期間中、68人が費やした1,572時間は、4万豪ドルを超える地元の賃金になっています。あるレンジャーは、以前は動物の写っていない写真を何千枚も処理していたと述べ、空振りが減ったことで作業が「退屈でなくなった」という趣旨を語っています。
綴りを、古老に習いに行く
浮いた時間が向かった先が、この事例のいちばん美しいところです。
空振りが除かれたことで、レンジャーたちは画面の切り替えに気を取られず、種の同定と二つの言語での記録に集中できるようになりました。その過程で、動物の名前、土地の名前、そしてその綴りを学び直していきます。あるダルク・レンジャーは、仕事に就いた当初は動物を表す自分たちの言葉の綴りがわからず、古老に教わりに行った、いくつかは名前そのものを知らなかった、という趣旨を述べています。すでに日常では使われなくなっていた名前が、カメラの画像を通じて戻ってきたのです。
自分たちの言葉で動物の名を書けるようになったことは誇りだ、次の世代も、その次の世代もこれを知ることになる——そう語られたと論文は記録しています。
成果は氏族の土地ごとのポスターにまとめられます。英語と、氏族ごとの方言を含むビニンジ・クンウォクの両方で種名が記され、確認された動物、場所、関わった人の名前が並ぶ。ポスターはレンジャーの拠点と学校に貼られ、子どもたちがよく見ているといいます。早期の火入れをどうやるかを教える教材にもなりました。
データが、親族の関係を結び直す
もう一つ、切実な事情があります。いまでは多くの伝統的所有者が、自分の氏族の土地から離れて暮らしています。動物を直接見る機会そのものが減っている。生物多様性の減少もあって、めったに姿を見ない種が増えました。
だからレンジャーたちは、ポスターを持って車で集落を回ります。年配の女性たちの家に上がり、一緒に座って、自分の土地にいた動物の写真を見てもらう。相手は喜んでくれた、と報告されています。そして「次もあなたの土地にカメラを置いていいか」と尋ねる。調査の許可を取り直す行為が、そのまま報告と再会の場になっているわけです。
ポスターを見た古老たちは、そこに「何が写っていないか」を読みます。西洋科学の過去の記録がない土地で、かつて何がいたかを知っているのは彼らだけだからです。あるレンジャーは、古老たちは自分たちより物を知っている、彼らは千年も前からここにいたのだから、という趣旨を語っています。
集落の長老の一人は、若い世代がカントリーへ出て戻ってきたら、何を見て何をしてきたのかを話すべきだと述べています。家にいる自分たちが土地の様子を知るために。それは秘密にしてよいことではない、と。
論文には、レンジャーの一人の言葉としてこう記されています。AIは自分たちの仕事を置き換えるのではなく、マイを知りカントリーを世話するという自分たちの仕事を助けるのだ、と。
それでも残る、危うさ
論文はこの事例を成功譚として閉じてはいません。
同意が形式に堕す危険。遠隔地では、AIは中身の見えない「入れたら出てくる装置」として体験されがちです。技術の概念は簡単には翻訳できない。「この目的だけに使う」という地元の理解と、「データはその後も再利用されうる」という現実のあいだにずれがあれば、同意は手続きだけのものになりかねない、と論文は書いています。
規約と統治のずれ。クラウド型の画像認識サービスの利用規約は、地元の統治や文化的な機微と一致しないことがあります。だからこそ、この事業では繰り返しカントリーに出向いて仕組みを説明し、住民が試して意見を返せる状態を保つ必要があった。手間のかかるやり方が、そのまま安全策になっているのです。
そして雇用。近隣地域の長老の言葉として、カントリーと文化への最大の脅威は仕事が足りないことだ、という指摘が引かれています。論文は、先住民レンジャーが「データを集める係」に留め置かれてはならず、専門的な生態学の技能を身につけて処理と解釈の側に関わることを、支援機関の側が支えるべきだと述べています。この事業の資金も、企業財団や環境信託などの外部の助成に支えられています。
その先の一歩も始まっています。ワードデケンは大学や地域の自然資源管理団体、AI企業と組んで、オーストラリア北部の種を見分けるモデルの開発に加わりました。データの提供は「この一回の目的に限る」という条件で小委員会が承認し、公開版とは別に、ビニンジ・クンウォクと英語の種名を保持する内部版が作られています。ブラックボックスの中を覗いてみたことで、自分たちの条件に合う道具を自分たちで育てる自信がついた、と論文は記しています。
祈りによせて
この論文の著者は17人。その多くが、ワードデケン土地管理会社に所属するレンジャーたちです。謝辞には、この事業でこれまでに400万枚を超える画像にタグを付けてきたダルク・レンジャーたちへの感謝と、事業を立ち上げた一人の女性レンジャーへの献辞が置かれています。
世界中で「AIは仕事を奪うのか」が論じられています。この土地では、その問いを最初に口にしたのが、技術を入れられる側の長老たちでした。そして彼らは反対も歓迎もせず、条件を出した。データはここに置く。使う道具は自分たちのサーバーで動くもの。名前を決めるのは人間。浮いた時間は、言葉と、子どもたちと、土地へ返す。
技術が誰かの手から何かを奪うかどうかは、たぶん技術そのものより、それを入れるときに誰が机に着いていたかで決まります。岩の大地で交わされた協議が、遠く離れた場所の誰かの助けになりますように。名前を取り戻した人々の言葉が、次の世代へ渡っていきますように。
オーストラリアの人々のために祈りを捧げる方は、こちらのページへどうぞ。
→ オーストラリアのために祈る | 祈りのワールドツアー
オーストラリアが平和でありますように
参考・引用元
- Penton, C. E. ほか17名「Reimagining artificial intelligence applications for Indigenous-led community-based wildlife monitoring: Insights from biodiversity surveys in the Warddeken Indigenous protected area in northern Australia」『Conservation Science and Practice』8巻7号 e70331(2026年)=査読論文・オープンアクセス。著者の多くがワードデケン土地管理会社のレンジャー:doi.org
- Warddeken Land Management Ltd(ワードデケン土地管理会社)公式サイト=保護地域の概要と年次報告:warddeken.org.au
関連ページ
- アフリカの言語でAIをつくる ― 南アフリカ「私たちが、自分たちの言語の守り手です」:prayers-for-world-peace.net
- チリ・チロエ島の石積み「コラリートス」と日本の石干見 ― 卵の一部だけを採る海の作法:prayers-for-world-peace.net
- 「サーモンの王国」を、先住民の手に――カナダ・海洋保護区に見る新しい共同管理のかたち:prayers-for-world-peace.net
- ニュージーランド首都にキーウィが帰った ― 鳥より先に、4年かけて罠を敷いた市民たち:prayers-for-world-peace.net