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「やさしい日本語」と熊本地震 ― 「避難所」を「にげるところ」と書き直した31年

2026年7月28日の夕方、熊本県の八代市が、自分たちのウェブサイトの言葉を書き換えはじめた。「避難所」のとなりに、小さく「にげるところ」。「給水所」は「水をもらえるところ」。地震が起きたのは、その日の午後4時27分だった。

この言い換えには名前がある。「やさしい日本語」という。そしてこの言い方が生まれたきっかけは、31年前の、別の地震だった。

外国人が日本語の表記でこまっている
外国人が日本語の表記でこまっている

「英語で足りる」と思われていた

1995年1月17日、阪神・淡路大震災。兵庫県が後年まとめた調査によると、亡くなった6,402人のうち171人が外国籍の人だった。

当時、行政の側には「外国人向けの情報は英語を用意すれば足りる」という前提があった。ところが被災した人々を調べてみると、その多くは英語を話さなかった。神戸という国際都市にいたのは、英語圏から来た人ばかりではなかったのである。この食い違いに気づいたところから、弘前大学人文学部の社会言語学研究室が動きはじめる。中心にいたのが佐藤和之氏(現・同大学名誉教授)だった。

研究室が出した答えは、通訳や翻訳者を増やすことではなかった。日本語を話す側が、言い方を変える。そういう方向だった。

24拍という長さ

研究室がまとめたガイドラインには、12のルールが並んでいる。1つの文は24拍程度、長くても30拍まで。語彙は日本語能力試験3・4級程度に抑える。「〜ないわけではない」のような二重否定を避ける。書く場合は語と語のあいだを空け、漢字には振り仮名をつける。

言い換えの例も具体的だ。「余震」は「あとから来る地震」。「避難所」は「みんなが逃げるところ」。八代市が書いた「にげるところ」は、この系譜の上にある。

ここで一つ、名前について断っておきたい。「やさしい日本語」は、幼児向けの言葉でも、内容を削った要約でもない。津波の危険なら「津波が来るかもしれません」「津波は海から来る高い波のことです」「海や川の近くへ行かないでください」と、短い文を重ねていく。情報量は減っていない。減っているのは、理解に必要な日本語の習熟度のほうだ。

佐藤氏は2016年の講演資料で、日本に来て1年以上の外国人であれば80%以上が理解できることを実験で確かめたとしている。

発信していた側が、自分から畳んだ

この研究室のウェブサイトは、長く「やさしい日本語」の総本山のような場所だった。2011年の東日本大震災では24時間態勢で情報を出し続けた。

そのサイトが閉じられたのは、2020年1月17日の夕方5時である。阪神・淡路大震災から、ちょうど25年の日だった。

閉鎖の直前、アクセス数は通常の2倍、3倍に増えていたという。それでも閉じた理由を、佐藤氏は地元紙にこう語っている。

「発信当初から当サイトは外国人と外国人を助けようとする日本のみなさんを対象にしていた。私たちがいつまでも発信しているとみなさんの意識を変えられないと考え、四半世紀という節目で閉じることにした」

自分が中心であり続けるかぎり、まわりは変わらない。だから中心をやめる。

散らばった先

サイトが閉じた同じ年の8月、出入国在留管理庁と文化庁が「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」を公表した。国が自らの仕事として、言い方を変える手順を示したことになる。

ガイドラインが引く東京都国際交流委員会の調査では、日本に暮らす外国人が「どの言語で情報を発信してほしいか」を尋ねられたとき、最も多かった答えがやさしい日本語で76%だった。英語は68%。作り方も3段階に整理され、最後に日本語教師や外国人に読んでもらって確かめる工程が置かれている。書いた側だけで完結させない、という設計だ。

日本に暮らす外国籍の人は、2024年末時点で376万8,977人(出入国在留管理庁)。その後も増え続けている。

2026年7月、熊本で

令和8年熊本地震は、マグニチュード7.1、宇城市と氷川町で震度7を観測した。内閣府の資料では、9月9日12時の時点で死者38人、避難者1,838人(最大時9,931人)となっている。熊本県内には約3万2,372人の外国人が暮らしていた。

八代市のページは、9月に入ってからも更新され続けていた。「地震(じしん)が 続(つづ)いています。安全(あんぜん)に 気(き)をつけてください。」——語と語のあいだが空き、漢字には振り仮名がつく。り災証明書の案内も相談窓口の番号も、同じ調子で並ぶ。12のルールが、そのまま行政の実務になっている。

民間の動きもあった。認定NPO法人難民を助ける会(AAR Japan)は、氷川町と八代市の飲食店に物資の配付場所を設けた。看板に書いたのは、ひらがなで「ものをくばるところ」。置いたのは日本の保存食だけでなく、ハラル認証の食品や、東南アジアの缶詰・レトルトだった。ベトナム、インドネシア、フィリピンから来て働く人たちが、そこへ来た。

受け取ったベトナム出身の女性は、みんなで助け合いながら厳しい生活を送っている、そんな中で支援してもらってありがたい、と語ったと報じられている。

それでも、届かなかった人がいる

ここで終わらせるわけにはいかない。地震から2か月近くたった9月22日、熊本日日新聞は「外国人、情報なく孤立も」という記事を出している。

ネパールから来て特定技能の資格で働いていた人は、避難所に行けるのは家が倒れて住めない人だけだと思っていた、水や食べ物に困ったらどこへ行けばいいかも分からなかった、と語ったと報じられている。この人は地震のあと3日間、寮にあった食料でしのいだ。八代市のサイトには「にげるところ」と書いてあった。だがその人は、サイトを見ていなかった。

同じ記事で、熊本県ベトナム人協会のホアン・バン・チューン氏は、自治体のウェブサイトを見る習慣がない外国人もいる、外国人がよく使うSNSでの発信も考えてはどうか、と述べたと報じられている。

言葉を易しくすることは、情報が届くための必要条件であって、十分条件ではなかった。31年かけて解かれたのは「どう書くか」の問題であり、「どこに置くか」「そもそも見てもらえるか」は、まだ解かれていない。

もう一つ、書いておかなければならないことがある。やさしい日本語を紹介するnippon.comの記事は、2025年に入って「外国人に言語面で配慮する必要はない」という主張が聞かれるようになった、と伝えている。31年かけて積み上げられたものが、当たり前に受け入れられているわけではない。

一度の書き直しが、二方向に効く

ただ、この31年を「言い換えの工夫」として畳んでしまうのは早い。八代市の職員が「避難所」と打つところを「にげるところ」と打ち直したとき、その一拍は二つの方向へ効いている。

一つは、そのまま日本語で読む人に向かって。佐藤氏が最後に取り組んだ研究(南海トラフ地震を想定した科研費課題、2017〜2023年)の成果概要には、開発した表現が外国人住民だけでなく、外国人観光客や「一部だが日本人の災害弱者」にも寄与した、とある。京都市が2018年に出した職員向けの手引きは、対象を「知的障害のある人や外国人、高齢者や子ども」とし、弘前大学のルールを実務用に直したものだと明記している。受益者は、外国人の外側へ広がった。AI翻訳は、日本語しか使わない高齢者には何もしてくれない。

もう一つは、機械翻訳の入口に向かって。翻訳研究には「プリエディット」——訳す前に原文を書き換えて訳質を上げる手法がある。宮田玲氏と藤田篤氏の調査(2017年)では、書き換えによって85%以上の原文が十分な訳質に達した。一文を短くする、曖昧な表現を避ける、読点を整える。やさしい日本語の12のルールと、ほとんど同じ操作である。

多言語対応は普通、言語の数だけ手間が増える。だが入口の日本語を一度整えれば、その一回の判断は、訳される先のすべての言語に効く。しかも機械は「避難所」という語が誤解されていることを知らない。正確に訳して、誤解ごと運んでしまう。気づくのは人のほうだ。人が定義を決め、機械が配る。二つを競わせるより、この順番に並べたほうが、たぶんずっと遠くまで届く。

もっとも、これはまだ確かめられた話ではない。プリエディットの調査は当時の統計的な機械翻訳を対象にしたもので、いまの生成AIによる翻訳で同じだけ効くのかは、測られていない。期待できる、という段階にとどめておきたい。

祈りによせて

この話のいちばん静かな部分は、たぶん2020年1月17日の夕方5時にある。25年続けた発信を、アクセスが伸びている最中にやめた。自分が中心にいるかぎり、まわりの意識は変わらない——そう考えた人がいた。

その判断の答えは、31年後の熊本で八代市の職員が「にげるところ」と打ち込んだ瞬間に出ている。同時に、寮で3日間を過ごした人の存在が、まだ足りていないことも同じ強さで示している。

言い方を変えるという営みには、相手を面倒だと思わない時間が要る。「避難所」と打つところを、一拍おいて「にげるところ」と打ち直す。その一拍は、生産性の外側にある。負担を引き受けるのが、助けられる側ではなく、話す側だった。やさしい日本語がいちばん大事にしているのは、たぶんそこだ。そして話す側が引き受けたその一拍は、いま、日本語のまま読む人にも、機械を通していくつもの言語へも、同時に運ばれていこうとしている。手放した人の見ていない場所で、一拍の届く先が増えている。

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参考・引用元

  • 熊本日日新聞「<2026年熊本地震>外国人、情報なく孤立も」(2026年9月22日):kumanichi.com
  • 八代市(公式)「外国人市民のみなさんへ」やさしい日本語による地震情報:city.yatsushiro.lg.jp
  • 認定NPO法人難民を助ける会(AAR Japan)活動報告「言葉の壁を越えて―熊本地震の外国人被災者を支援」(2026年8月21日):aarjapan.gr.jp
  • 弘前経済新聞「弘前大学の『やさしい日本語』ウェブサイト閉鎖へ」(2020年1月15日):hirosaki.keizai.biz
  • 弘前大学人文学部社会言語学研究室「『やさしい日本語』作成のためのガイドライン(増補版)」(2013年3月11日・消防庁資料として公開):fdma.go.jp
  • 佐藤和之「多言語対応と『やさしい日本語』」多言語対応・ICT化推進フォーラム資料 (2016年7月5日):2020games.metro.tokyo.lg.jp
  • 出入国在留管理庁・文化庁「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」(2020年8月):moj.go.jp
  • 科学研究費助成事業「南海トラフ地震に対応した外国人住民への『やさしい日本語』適応の研究」(研究代表者・佐藤和之、2017年4月〜2023年3月):kaken.nii.ac.jp
  • 京都市保健福祉局障害保健福祉推進室「障害のある人や外国人にとって分かりにくい日本語も少し工夫するだけで分かりやすくなります」(2018年3月):city.kyoto.lg.jp
  • 宮田玲・藤田篤「機械翻訳向けプリエディットの有効性と多様性の調査」『通訳翻訳研究への招待』第18号 (2017年):honyakukenkyu.sakura.ne.jp
  • 出入国在留管理庁「令和6年末現在における在留外国人数について」:moj.go.jp
  • 兵庫県「阪神・淡路大震災の死者にかかる調査について」(2005年12月発表):web.pref.hyogo.lg.jp
  • 内閣府「令和8年熊本地震に係る被害状況等について」(2026年9月9日12時現在):bousai.go.jp
  • 気象庁「令和8年熊本地震 ポータルサイト」:jma.go.jp
  • nippon.com「行政、教育、観光…広がる『やさしい/Yasashii日本語』」:nippon.com

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