2026年3月6日、厚生労働省がiPS細胞を使った再生医療2製品の製造販売を承認した。重症の心不全と、パーキンソン病。iPS細胞を使った治療製品の承認は、世界で初めてである。山中伸弥教授らが2006年にマウスでこの細胞の作製を報告してから、ちょうど20年が経っていた。
ただし、この日に起きたのは「治療の完成」ではない。むしろ、長い検証の始まりだった。
選択肢が、心臓移植しかなかった人たち
承認された一つは、大阪大学発のスタートアップ・クオリプスが開発した心筋細胞シート「リハート」。効能・効果として認められたのは、薬物治療や侵襲的治療を含む標準治療で効果が不十分な、虚血性心筋症による重症心不全の治療である。
これまでこうした患者に何が起きていたか。時間の経過とともに症状は悪化し、最終的な治療手段は心臓移植か補助人工心臓しかなかった。心臓移植には深刻なドナー不足と年齢制限がある。補助人工心臓には感染症や脳神経障害のリスクがあり、生涯にわたる生活の質の課題が伴う。待つ以外の道がなかった、ということである。
リハートは、健康なドナーのiPS細胞から分化させた心筋細胞をシート状に加工したものだ。心臓の表面に貼り付ける。開発元によれば、シートから分泌されるサイトカイン等の効果によって心筋の状態が改善し、心不全症状・心機能・運動耐容能の改善が期待されるという。壊れた心筋を置き換えるのではなく、貼ることで元の心筋の回復を助ける、という発想である。
もう一つは、住友ファーマが開発したパーキンソン病治療用の「アムシェプリ」。京都大学医学部附属病院と京都大学iPS細胞研究所(CiRA)が2018年8月から実施してきた医師主導治験の結果をもとに、承認申請されたものだ。
治験は50歳から69歳までの7名を対象に、iPS細胞由来のドパミン神経前駆細胞を脳内の被殻へ両側移植し、24か月にわたって観察した。結果は2025年4月17日号のNature誌に掲載された。重篤な有害事象は発生せず、移植した細胞は生着してドパミンを産生し、腫瘍形成を引き起こさなかった。これによりパーキンソン病に対する安全性と臨床的有益性が示唆された、というのが研究チームの結論である。
パーキンソン病は、ドパミンを作る神経細胞が少しずつ失われていく進行性の病気だ。この治療は、失われた細胞を外から補うものである。病気の進行そのものを止める治療ではない。
「承認」は、効くと決まったという意味ではない
2製品はいずれも「条件及び期限付承認」である。有効性が推定される段階で市販を認め、実際に使いながら後から検証する制度だ。治療法のない患者に早く手を届けるための仕組みで、米国や欧州にも類似の制度がある。
クオリプスは本承認の取得に向け、発売後に75人の患者の治療データを集める全例調査を実施する。国内での販売開始は2026年秋頃を予定している。
この制度が何を意味するのか。前例を見ると、その重みがわかる。
条件及び期限付承認の第1号は、テルモと大阪大学が開発した心筋シート「ハートシート」だった。2015年、同じ重症心不全の適応で承認された。患者自身の筋肉から採った細胞を培養してシート状にし、心臓に貼るというものである。当初5年の承認期間は、予定した症例数が集まらず3年延長された。そして2024年7月、市販後の使用成績調査49例を解析した結果を受けて、厚生労働省の部会は「有効性は示されておらず、承認することは適切ではない」と結論した。
テルモは、条件及び期限付承認時に設定した達成基準を満たさなかったとして販売を終了した。安全性については新たな懸念は認められなかったが、有効性が示されなかった。同じ部会では、別の企業の遺伝子治療薬が市販後調査で臨床試験の結果を再現できず、企業が自主的に申請を取り下げたことも報告されている。
9年をかけて、効かないという結論に至った例が、同じ病気の同じ制度の中にある。厚生労働省がほとんど適用しない不承認に踏み切ったことは、制度が機能していることを示す事例だという評価もある。
今回のリハートについて公開されている臨床データも、虚血性心筋症8例の単群試験が中心である。左室駆出率や心臓の容積の指標では統計的な有意差が出ておらず、有意差が確認されたのは運動能力を示す最高酸素摂取量だった。8例という規模では、これ以上を求めるのが難しい設計でもある。だからこそ、これから始まる75例の調査が本番になる。
費用の問題も残る。再生医療等製品は、化学工業品と違って各生産段階で品質を保とうとするとコストがかさむため、価格が高額になりやすい。医師の谷本哲也氏は、最先端医療の新薬では1回の投与で3億円を超えた例もあり、保険が適用されればその負担は国民全員で引き受けることになると指摘している。技術が前に進むほど、誰がその費用を負うのかという問いが前に出てくる。
なぜ、他人の細胞なのか
今回承認された2製品は、どちらも他人の細胞を使う「他家(たか)移植」である。iPS細胞は自分の細胞から作れるという特徴を持つのに、なぜそうしないのか。
実は、自分の細胞を使う「自家(じか)移植」は、すでに世界で最初に行われている。2014年9月12日、滲出型加齢黄斑変性の患者に、その人自身のiPS細胞から作った網膜色素上皮のシートが移植された。iPS細胞から作製した組織を使った臨床手術としては、世界初の事例である。
結果は良好だった。手術手技に伴う有害事象はなく、1年後の評価で移植片の異常増殖や拒絶を示す所見は認められなかった。移植片の上で網膜の構造も保たれていた。手術前は治療を続けながらも視力が落ちる傾向にあったのが、術後は無治療で同じ視力を維持できた。2年以上が経った時点でも腫瘍形成や拒絶はなく、追加の眼内注射も行っていない。
それでも、実施は1例で終わった。
理由の一つは、時間と費用である。他家なら、あらかじめ作って備蓄した細胞から配れる。CiRAが2013年度に国の支援で始めたiPS細胞ストック事業は、そのための仕組みだ。自家はそれができない。患者一人ごとに細胞を採り、iPS細胞を作り、目的の細胞に分化させ、品質と安全性を検査する。従来は数か月から1年近くを要した。急性期の脊髄損傷のように治療の窓が数週間しかない病気では、そもそも間に合わない。
もう一つの理由は、一人ごとの判断が要ることだ。2014年の臨床研究では2例目も準備されていた。シートは規格を満たし、腫瘍ができないかを調べる試験もクリアした。ところが参考データとして行ったゲノム解析で、X染色体上の遺伝子の欠失などが見つかった。その欠失が生物学的にどういう意味を持つのか、統一した解釈が得られなかった。もともとの治療で病状が落ち着いていたことも考慮され、手術は延期された。
自家細胞は、その人のゲノムをそのまま引き継ぐ。何かが見つかったとき、判断の基準がまだない。
一方の他家にも、別の限界がある。拒絶反応を抑えるため、iPS細胞ストックは特定の免疫の型(HLA)を持つドナーから作られている。4種類のiPS細胞で日本人の約40パーセントに対応できたが、残る60パーセントに備えるには何十種類も作る必要があり、数十年かかるという難題が浮上した。ゲノム編集で対応範囲を7割以上に広げる構想はあるが、その効果と安全性はまだ検証されていない。
他家は、速くて安いが、全員には合わない。自家は、誰にでも合うが、遅くて高い。だから両方を進める必要がある。
「死の谷」を、値段の側から越える
山中伸弥教授は、研究と産業の間には大きなギャップがあり、この「死の谷」を越えるためにベストを尽くすと語っている。その克服とは、コストを下げることを意味する。
ここに、選択があった。米国のように民間企業へ年間数百億円が投資される環境なら、大学の成果を企業へ橋渡しできる。しかし多くの国では、開発と事業化の間の谷で頓挫する。そして民間が多額の研究費を投じる方式を取れば、再生医療は高価格化する。山中氏はこう説明している。患者が使える医療にするためには、米国とは違うやり方で進めていく必要がある。
そのために作られたのが、国の研究費と寄付で運営される京都大学iPS細胞研究財団である。目的は、適正な価格でiPS細胞を提供すること。企業や大学へ低価格で細胞を配る役を、公益法人が引き受けた。性能を競う組織ではなく、値段を下げる組織を先に作った、ということである。
この財団が進めているのが「my iPSプロジェクト」だ。狙いは、止まっていた自家移植の道を開くことにある。
鍵は自動化である。装置の中から細胞を取り出さずに培養する「閉鎖型自動培養装置」を使うことで、患者本人の血液から1人分の自家iPS細胞を約3週間で作製できる。製造費は100万円程度。ただしこれは原材料費だけの計算で、実際の治療にはこれに分化細胞の製造費、治療費、入院費、薬剤費などが加わる。財団自身が、医療費全体をさらに減らす取り組みが必要だと述べている。数か月かかっていた工程が3週間になったとしても、患者の負担がそのまま100万円になるわけではない。
財団の研究開発センター長である塚原正義氏は、細胞製造を産業にしていくには自動化は避けて通れないと説明している。財団は、将来的に自家iPS細胞を約100万円で提供できる仕組みを整え、2028年度中に提供先による臨床試験の開始を目指すとしている。
2025年3月、その拠点が姿を現した。大阪市内に完成した「Yanai my iPS製作所」が報道陣に公開され、4月に稼働を始めた。手作業だった製造工程を自動化する施設である。プロジェクトの発足から5年が経っていた。
祈りによせて
この20年の歩みを追っていると、二つの時間が流れているのがわかる。
一つは、間に合わせるための時間だ。待っている人がいるから、備蓄した他人の細胞で急ぐ。効くと推定できた段階で世に出し、使いながら確かめる。速さは、誰かの残された時間に追いつくための速さである。
もう一つは、届く範囲を広げるための時間だ。体質が合わない6割の人にも、そして値段を理由に諦めずに済むようにも。こちらは急いでも縮まらない。装置を作り、工程を自動化し、検査の基準を積み上げる。地味で、長い。
医療の進歩は、しばしば前者の物語として語られる。世界初、画期的、ついに実用化。けれど本当に暮らしを変えるのは、たぶん後者のほうだ。研究の成果を高く売るのではなく、安く配る仕組みを先に作る。その判断は、技術の話ではなく、この医療が誰のものかという話である。
いま承認されたばかりの治療が、7年後に「効いていた」と確かめられるのか、それとも前例のように退くことになるのかは、まだ誰にもわからない。わからないままに、検証は始まっている。その正直さも含めて、この歩みが続いていきますように。そして届く範囲が、少しずつ広がっていきますように。
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参考・引用元
- サイエンスポータル(JST)「iPS細胞使用の再生医療製品、国が初めて承認 心不全などで増える選択肢」(2026年3月18日):scienceportal.jst.go.jp
- 時事通信「iPS細胞、2製品を承認 心疾患とパーキンソン病治療」(2026年3月6日):jiji.com
- 京都大学医学部附属病院「パーキンソン病に対するiPS細胞由来ドパミン神経細胞治療についてのお知らせ」(2026年3月6日):kuhp.kyoto-u.ac.jp
- 京都大学iPS細胞研究所「医師主導治験において安全性と有効性が示唆」(2025年4月17日):cira.kyoto-u.ac.jp
- クオリプス「リハート(iPS細胞由来心筋シート)」製品情報:cuorips.co.jp
- 医薬通信社「ヒトiPS細胞由来心筋細胞シート『リハート』条件・期限付き製造販売承認取得」(2026年3月6日):iyakutsushinsha.com
- テルモ「厚生労働省 薬事審議会における『ハートシート』の審議結果について」(2024年7月):terumo.co.jp
- 日本経済新聞「ハートシート承認不適切 重症心不全の再生医療製品」(2024年7月19日):nikkei.com
- 理化学研究所「加齢黄斑変性に対する自己iPS細胞由来網膜色素上皮シート移植」(2017年3月16日):riken.jp
- 科学技術振興機構「iPS細胞を用いた臨床手術に成功!」:jst.go.jp
- 京都大学iPS細胞研究財団「my iPSプロジェクト」:cira-foundation.or.jp
- 日刊工業新聞「京都大学iPS細胞研究財団『My iPSプロジェクト』 自家細胞を自動作製」(2025年4月11日):nikkan.co.jp
- ニュースイッチ(日刊工業新聞)「『死の谷』超えるかiPS細胞、公益財団始動で転機に」:newswitch.jp
- プレジデントオンライン「1回3億円超の薬価を国民全員で背負うことになる」(2026年3月25日):president.jp
- 科学技術振興機構 POLICY DOOR「再生医療、コストの壁をどう破る」:jst.go.jp
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