カラチのある家。4歳の子どもがすぐそばで遊んでいる。母親はノートパソコンの画面越しに、国の反対側にいる患者を診ている。サニヤ・ジャフリ、43歳、3人の子の母。かつては循環器を専門にしていた医師である。
結婚を機に、その道を手放した。「長時間働いて、長く家を空けることを選びたくなかったのです」
医師免許を持つ7万人が、診療していない
パキスタンには奇妙な数字がある。人口2億5,000万人の国で、登録医師は約37万人。そのうちおよそ7万人の女性医師が、登録簿に名前を残したまま診療していない。医師会によれば、全体のおよそ5分の1にあたる。
医学部に入るのは、圧倒的に女性が多い。国立の医科大学の狭き門に挑む志願者の大半は女性で、パキスタンでは珍しく、女子学生の入学が男子を上回る分野である。しかしギャラップの調査と医師会の推計では、女性の医学部卒業生の3分の1以上が、一度も職に就かないか、結婚後に離職する。理由として挙がるのは、家族の支持が得られないこと、保育の設備が乏しいこと、そしてハラスメントだ。
国が学費を補助して育てた医師が、家庭の中にいる。その一方で、都市と農村の医療格差は深く、都市の労働者階層の地域でも医療の質は悪い。
「ドクター・バフー」
この現象には、パキスタンで通用する呼び名がある。「ドクター・ブライド(医師の花嫁)」、あるいはウルドゥー語で「ドクター・バフー(医師の嫁)」。
医師という肩書きは、結婚において一族の社会的地位を大きく引き上げる。だから多くの家庭が、娘に医学部を勧める。産科医のサラ・サイード・クラム氏はこう語る。「『医師と結婚します』という招待状が出るとき……それだけで一族全体の社会的地位が上がるのです」
そして、こう続ける。「いったんその目的が果たされてしまうと……その家族の中にある規範に抗って彼女を働かせる、というのは、とても難しくなる」
クラム氏自身がそうだった。「私も、いわゆるドクター・ブライド、ドクター・バフーになりました」。彼女は仕事を続けたが、医学部の同級生たち——その多くが女性だった——が、義理の家族から家庭に専念するよう求められ、一人また一人と現場を去っていくのを見ていた。
学費を出したのは実家と国である。卒業後に働くかどうかを決めるのは婚家である。費用を負担した側と、決定権を持つ側が、別の場所にいる。
病院という職場のかたち
家庭の側だけの話ではない。受け入れる職場の側にも、はっきりした理由がある。
パキスタン・イスラム医師会のザキヤ・アウランゼブ会長は、鋭い指摘をしている。「母親たちに『6か月は母乳だけで育てなさい』と助言する女性医師が、自分の職場にはその設備を持っていないのです」
加えて、長時間勤務がある。そして、治療の結果が悪かった患者の家族から受けるハラスメントや集団的な暴力の危険がある。同会長は、それが女性とその家族を医療現場から遠ざけていると述べる。
つまり、幼い子を持つ女性にとって病院で働き続けることが「家庭生活と両立しない」と広く見なされているのは、規範の問題であると同時に、施設と労働条件の問題でもある。
働く場所のほうを動かす
クラム氏は、自分自身が出産を機に事実上職を失った経験から出発した。そして、家に留め置かれた医師と、医師のいない地域とを、一本の線でつなぐことを考えた。
2017年、イファト・ザファル・アガ氏とともにカラチで立ち上げたのが「Sehat Kahani」——ウルドゥー語で「健康の物語」を意味する。
仕組みはこうだ。医療の乏しい地域に、看護師が常駐する小さな診療所(eクリニック)を置く。患者はそこへ歩いて行き、目の前にいる看護師の介助を受けながら、画面の向こうの医師の診察を受ける。医師は自宅にいる。スマートフォンを持たない人も、インターネットのない人も、この診療所までは来られる。現在、こうした拠点は80か所ある。
共同創業者によれば、この取り組みで7,500人の医師が診療の現場に戻った。
患者にとっての意味も小さくない。カラチの貧しい地区に住むムハンマド・アディルさんは、8歳の息子を近所のこの診療所に連れて行った。水疱瘡だった。診察は無料だった。「ここに来れば近いので、その日の稼ぎを失わずに済みます」
そしてもう一つ。体のことは女性医師に相談したい、という女性患者が多い。男女の距離感をめぐる社会の慣習は、女性医師を「必要とさせる」方向に働いている。求められているのに、働けずにいた。その需要と供給が、画面を挟んで初めて出会った。
これは企業である
正確に書いておきたい。Sehat Kahaniは草の根の運動ではなく、営利企業である。従業員は231人。累計で約440万ドルを調達し、2023年末にはシリーズAの資金調達を実施した。個人向けの利用プラン、法人向けの健康プログラム、在宅での検査や薬の配送などが収益源で、湾岸諸国への展開も掲げている。パキスタンで初めてシリーズA調達を果たした、女性のみが率いる企業とされる。
2024年には、国内の経済メディアが、無料・割引の相談を配りながら成長する事業構造を分析し、収益基盤の確立とともに、患者の福祉に関わる倫理的な問いのほうがより大きな課題だと指摘している。社会課題を解決する事業であることと、事業として成立し続けることは、別の問題である。
迂回路であって、道ではない
この話を、技術が社会を変えた物語として書くことはできない。
変わったのは、働く場所である。女性が病院で働き続けられない条件——保育設備の欠如、長時間勤務、ハラスメントの危険——は、何ひとつ解消されていない。この仕組みは、その条件を迂回する道をつくった。条件そのものを直したわけではない。
ジャフリ医師は、いま子どもの世話と家事をこなしながら、オンラインで患者を診ている。「子どもたちのそばにいたかったのです」。それは本人の選択である。だが同時に、家庭内の仕事をすべて引き受けたうえに、職業の仕事が乗っている状態でもある。彼女は循環器を諦めたままだ。
そして何より、ジャフリ医師自身が、この物語の限界をいちばん正確に言葉にしている。デジタルの医療は柔軟性を高め、女性が仕事に戻る助けになりうる。ただし最終的には、家族の支えが鍵なのだ、と。
「夫や、両親や、義理の家族の支えを得られる女性医師は、力を発揮できます」
「それを得られる人は前へ進みます。けれど、得られない多くの人は、諦めることを強いられるのです」
働くかどうかを決める権限は、まだ本人の手にはない。この仕組みが下げたのは、許しを得るための費用である。家を空けない。夜勤がない。だから反対する理由が減り、承諾を得られる家庭の範囲が広がった。門は開きやすくなったが、門はいまも本人の外側にある。
それでも、7,500人が扉の内側から外へ出た。出られなかった人がまだ大勢いるという事実は、出られた人の重みを減らしはしない。
祈りによせて
誰かの能力が使われないまま眠っているとき、失われているのはその人の収入だけではありません。診てもらえたはずの患者がいて、救えたはずの命があり、目指せたはずの専門があり、そして何より、自分の時間をどう使うかを自分で決めるという、その人の当たり前が失われています。
この国の医師たちは、社会を作り変えることはできませんでした。代わりに、いま開けられる窓を一つ開けました。それは小さな窓で、そこから出られた人と、出られなかった人がいます。けれど窓が一つ開いたことは、次の窓が開く可能性が生まれたということでもあります。日雇いの父親が、その日の稼ぎを失わずに息子を診てもらえたこと。四歳の子のそばで、母親が医師に戻れたこと。そのささやかな一つひとつが、誰かの一日を確かに変えています。パキスタンで暮らす人々の上に、それぞれが自分の道を選べる日が、少しずつ広がっていきますように。
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パキスタンが平和でありますように
参考・引用元
- AFP配信「Telemedicine helps Pakistani women doctors return to practice」(Pakistan Today、2026年4月29日):pakistantoday.com.pk
- AFP配信「Going online helps Pakistan's women doctors back to work」(Arab News、2026年4月29日):arabnews.com
- Profit by Pakistan Today「How Sehat Kahani came out the other side of the funding crunch」(2024年1月14日):profit.pakistantoday.com.pk
- MobiHealthNews「Women-led Pakistani telehealth startup bags $3M Series A funding」:mobihealthnews.com
- Commonwealth Fund「International Health Care System Profiles: Pakistan」(2026年5月):commonwealthfund.org
- Gavi VaccinesWork「Sehat Kahani is showing Pakistan that digital health services can change lives」:gavi.org
- Sehat Kahani 公式サイト:sehatkahani.com
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