天山(テンシャン)山脈の稜線を、灰色の影がよぎる。ユキヒョウ。あまりに姿を見せないので、キルギスの人々はこの獣を「山の幽霊」と呼ぶ。世界に3,500〜7,500頭が残るとされ、国際自然保護連合(IUCN)は絶滅の危機に瀕する一歩手前の「危急」に分類している。キルギスにいるのは、約285頭と推定されている。
2025年、この国は、その幽霊たちが歩いて渡れる道を法律でつくった。ただし、人を追い出さないやり方で。
山が乾き、牧民が上へ追いやられる
キルギスは国土の9割以上が山地で、人口は約700万人。高原の草地は何世代にもわたって家畜を養ってきた。
その前提が崩れつつある。氷河が縮んで、それに養われていた湧き水が涸れる。雨の降り方が読めなくなる。牧草地の質が落ちる。すると牧民は家畜を連れて、より高いところへ登っていくしかない。そこはこれまで、ユキヒョウとその獲物であるアルガリ(野生の羊)やアジアアイベックス(野生の山羊)の領分だった。
草をめぐって家畜と野生動物が競合し、野生の獲物が減れば、ユキヒョウは家畜を襲う。家畜を失った牧民は報復として、ユキヒョウを殺す。
「高山牧草地の劣化は、必然的に生物多様性の低下を招き、最終的にはユキヒョウの生存にも影響します」。現地の保全団体イルビルス財団のザイルベク・クバヌィチベコフ代表は、環境報道メディアのモンガベイにそう語っている。プロジェクトに関わる国連環境計画(UNEP)の担当者も、牧民がユキヒョウの敵なのではなく、気候変動と過放牧が両者の衝突リスクを高めているのだ、と述べている。
人を締め出さない保護区
2025年、イシク・クル州とナリン州にまたがる約80万ヘクタール(政府発表では79万2千ヘクタール超)が、「アク・イルビルス」生態回廊に指定された。キルギス語で「白い豹」を意味する。長さ約200キロ、幅25〜75キロの帯が、ハン・テングリ国立自然公園、サルィチャト・エルタシュ自然保護区、ナリン自然保護区をつなぐ。既存の保護区と合わせると120万ヘクタールを超える。
特異なのは、その中で人が暮らし続けることだ。14の農村自治体が回廊の内側にあり、放牧も林業も観光も続いている。
「キルギスの生態回廊は、禁止するのではなく調整する仕組みに基づいています」。合意形成を担った現地NGO、CAMPアラトーのムラト・ジュマシェフ代表らはモンガベイへの返信でそう説明する。厳格な保護区と違い、土地の収用も、一律の禁止も伴わない。
代わりに、細かな取り決めがある。放牧地のおよそ4分の1を非放牧区とする。12月から1月、3月から4月は季節的な禁牧期間とする。放牧しても植生の4割ほどは野生動物の餌として残す。牧羊犬が野生動物を追い立てないよう管理する。夏場に6万5千頭を超えていた羊は、輪換によって1万5千頭分を減らす計画だ。
そして、守られているかどうかを地域自身が測る。CAMPアラトーは地方自治体と牧民とともに、現地観察とGPSと放牧者から集めたデータで遵守状況を追う仕組みをつくった。2025年に東部の7万8千ヘクタール超で行われた試験運用では、92.5%の事例で規則が守られていた。回廊の要件をよく知らなかった地域も含めての数字である。
2070年の気候を見越して線を引く
境界線の引き方も変わっていた。
ベルリン・フンボルト大学とキルギス国立科学アカデミーの研究者たちは、ユキヒョウ、アルガリ、アジアアイベックス、ハイイロオオカミの4種が現在どこにいるかを、カメラトラップの画像と国の生物多様性モニタリングのデータから割り出した。そこに標高、傾斜、植生、道路や集落からの距離を重ね、さらに2040年と2070年の気候モデルを走らせた。
「地域の専門的知識と、気候予測と、技術的な知見を組み合わせて、将来のシナリオを描きました」と、モデル構築を主導したフンボルト大学のフリエタ・デカーレ氏は言う。中位から高位の排出シナリオでも、この4種に適した生息地の6割以上が回廊の内側に収まるという。
今日の動物のためだけでなく、数十年後に気温と降水が変わったあとも機能するように引かれた線である。
最初、牧民は警戒した
ただし、線を引くほうが簡単だった。
当初、牧畜を営む人々は慎重だった。回廊が厳格な保護区のように機能して、頼みの土地が使えなくなるのではないか——多くがそう恐れた、とUNEPの担当者は明かしている。CAMPアラトーと地方自治体は繰り返し協議の場を持ち、牧草地の利用計画を上から下ろすのではなく、牧民と一緒につくった。
やがて空気が変わっていった。CAMPアラトーの担当者らは、その理由の一部を「地域の人々自身が、干ばつや降水パターンの変化、牧草地の生産力低下という気候変動の影響をすでに体験しているから」だと説明する。放牧と自然の持続可能性のあいだで釣り合いを取る必要を、身をもって理解していた、と。
「この人たちは何千年も家畜とともに働いてきました。それがいま、気候変動などの理由で、やり方を変えることを迫られている」とUNEPの担当者はモンガベイに語る。「変化に開かれた人が必要です。人々にはその意思があり、実行できる。そのリスクを引き受けられる。私たちはそれを見てきました」
負担を和らげるため、プロジェクトは住民に養蜂、果樹栽培、温室での野菜づくり、エコツーリズムの技術を伝えた。150世帯超を対象にした調査では、保全に関わる家庭は収入源が多様になり、家畜への依存が下がっていた。短期的な経済的利得そのものは控えめだったが、家計に幅ができ、群れを増やし続けなければならないという圧力が減ったという。
給与の出ないレンジャーたち
回廊を実際に見回るのは、地域の住民から成る自発的なレンジャーたちだ。カメラトラップを仕掛け、牧草地の状態を記録し、野生動物の動きを追い、違法な行為を監視する。
その一つ、バイブースン共同保護区は、2018年にトン地区の3つの村の住民が立ち上げた、キルギスで初めての住民運営による微小保護区である。発足時の面積は1万4千ヘクタール。現在は51歳のバートゥルベク・アクマトフ氏ら6人が、380平方キロメートルを受け持っている。多くは元ハンターだ。野生動物の減り方を見て、猟をする側から守る側へ移った人たちである。
ジープと馬で山に入り、巡回は3日に及ぶこともある。広大な区域をひとりで回ることも多い。地滑り、鉄砲水、猛烈な雷雨、そしてときにライフルを持った密猟者に出くわす。危険な仕事だ。アクマトフ氏は、このままでは全部失ってしまうと思って始めたのだと語り、子どもたちに「昔はこういう自然や動物がいたんだ」と携帯電話の画面で見せるようなことはしたくない、自分の目で見てほしいのだ、と話したと伝えられている。
ここに、この物語のいちばん率直な事実がある。キルギス政府は、レンジャーたちに給与を支払うことができていない。代わりに、回廊を管理し密猟者を逮捕する権限を与えた。訓練と装備は、UNEPが主導するプロジェクトから出ている。安定した財源を見つけ、レンジャーを政府の制度の中に位置づけること。それが現在の課題だと、プロジェクト側自身が認めている。
まだ確かめられていないこと
指定から1年あまり。ユキヒョウが保護区のあいだを実際に行き来したことを示す研究は、まだ発表されていない。回廊内のほうが外より野生動物が多いという牧民の観察が報告されており、カメラトラップなどによる本格的なモニタリングはこれから始まる。
密猟も続いている。2024年、キルギスはユキヒョウを殺した場合の罰金を200万ソム(約2万3千ドル相当)に引き上げた。
回廊の中で明確に禁じられたのは、外来種の導入、農薬の使用、放射性廃棄物の処分など、生態系を直接損なう行為である。放牧や林業に加えて、鉱業や道路の整備についても、野生動物への影響を考慮したうえで判断される仕組みになっている。禁止ではなく調整であるという設計は、人が住み続けられる保護区を可能にすると同時に、今後の判断次第で回廊の実効性が左右されうるということでもある。
この事業を支えているのは、UNEPが主導し、ドイツ政府の国際気候イニシアティブが資金を出す「中央アジア哺乳類・気候適応(CAMCA)」プロジェクトだ。制度をつくる推進力は、国際機関と外国の資金から来ている。それは事実として書いておきたい。同時に、バイブースンの住民が2018年に自分たちの保護区をつくったのは、この計画が始まる前のことだ。外から来た制度と、もともとそこにあった意思とが、噛み合ったのだと言うほうが正確だろう。
祈りによせて
自然を守るとき、人はしばしば線を引いて、内側から人を追い出してきた。それがいちばん確実に見えるからです。けれどこの国の高原では、線の内側に人を残したまま、放牧の時期を分け、草の4割を野生動物のために残し、守られているかどうかを地域自身が測るという、面倒で気の長い方法が選ばれました。誰かが決めて従わせるのではなく、決める側に加わる人を増やすやり方です。
給与の出ない仕事を引き受けて、雷雨の山を三日間歩く人がいます。子どもに画面ではなく本物を見せたいという、それだけの理由で。その願いはまだ叶ったとは言えず、幽霊が回廊を渡った証拠も、これから探されるところです。それでも、山と人と獣のあいだに新しい約束が結ばれたことは確かです。キルギスの高原に暮らす人々と、そこを歩く生きものたちの上に、穏やかな時間が重なっていきますように。
キルギスの人々のために祈りを捧げる方は、こちらのページへどうぞ。
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参考・引用元
- Mongabay「In Kyrgyzstan, a climate-ready corridor gives snow leopards and herders room to roam」(2026年5月22日):news.mongabay.com
- UNEP「In Photos: Rangers race to save Central Asia's 'ghosts of the mountain'」(2025年10月22日):unep.org
- UNEP プレスリリース「Kyrgyz Republic unveils 800,000-hectare ecological corridor for biodiversity」(2025年5月22日):unep.org
- The Times of Central Asia「Kyrgyzstan Establishes Ecological Corridor to Protect Snow Leopards and Biodiversity」(2025年5月):timesca.com
- CMS/中央アジア哺乳類イニシアティブ「Local Communities Create Nature Reserves in Kyrgyzstan」(CAMPアラトー執筆):cms.int
- 中央アジア哺乳類・気候適応(CAMCA)プロジェクト公式サイト:camcaproject.org
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