2019年11月、エストニア南西部を流れるパルヌ川で、150年近くそこにあった壁が消えた。幅151メートル、高さ4.5メートルのシンディ・ダム。その跡地を、川が久しぶりに自分の速度で流れていく。「大変な挑戦でした。でも今、仕事がほぼ終わって、私たちはとても誇りに思っています」。事業を率いたエストニア環境庁のクッリ・タンムールさんは、そう語っている。
1万匹が、100匹になるまで
パルヌ川は全長144キロメートル、270の支流を合わせると3300キロメートルに及ぶ水系で、その流域はエストニア国土のおよそ6分の1を占める。かつてはこの国最大のサーモンの川だった。科学者の推計では、本来この川は年間4万5000匹から5万8000匹の稚魚を育む力を持つ。ところが近年、海へ戻っていく魚は年に100匹に満たなかった。
原因は明確だった。河口からわずか14キロメートル。回遊魚が海から遡上する、その最初の関門にシンディ・ダムが立ちはだかっていた。1834年に築かれ、のちに羊毛産業に水を供給するために使われたこの構造物には魚道が設けられていたが、機能していなかった。流域の産卵に適した場所のおよそ9割が、魚にとって到達不可能な場所になっていた。
1年半かけて、話し合った
撤去は数十年にわたって議論されてきたが、なかなか実現しなかった。転機は2015年、エストニア政府が民間の所有者からダムと周辺の土地を130万ユーロで買い取ったことだった。ただ、政府はすぐには工事に入らなかった。着工までの1年半を、地域住民との協議に費やしたのだ。
「地域社会がすべての段階に関与したこと。それがこれほどの公的支持を得られた主な理由です」と、世界魚類回遊財団のアリアン・ベルクハウゼンさんは評する。撤去後に行われた住民調査では、地域への影響を肯定的に受け止める声が広く共有されたと報告されている。ダムの跡地には人工の早瀬が作られ、そこはエストニア漕艇連盟と協力した、国際基準を満たすカヌー競技の練習場になった。バルト三国では類を見ない規模の施設だという。総事業費1500万ユーロのうち、85%はEUの結束基金が担った。
川が戻り、鳥も戻ってきた
成果は数字に表れた。サーモンの稚魚生産のポテンシャルは、400匹規模から5万匹規模へと跳ね上がったと推計されている。以前はダムの手前で行き止まりだったヤツメウナギが、今では100キロメートル以上も上流で見つかるようになった。コイ科のビムバが自由に泳げる水域は6.1倍に広がった。32種の魚の保全状況が改善したと報告されている。
ただし、この物語には続きがある。魚が上流の産卵場所へ戻れるようになった結果、それを餌とするカワウがこの地域で増えた。捕食者が戻ってくること自体は、川に食物網が甦った証しであり、本来は喜ばしい変化だ。だが増えた鳥は、漁業者にとっては歓迎されざる隣人でもある。ヨーロッパでは、1970年代に5万羽ほどだったカワウが、EUの鳥類保護指令によって200万羽以上にまで回復した。保護が成功した結果として、内水面の漁業者や養殖業者との軋轢が各地で深刻化し、2025年には国際機関が欧州規模での組織的な駆除を含む管理計画案を示す一方、40の環境団体が「科学的根拠に乏しい」と反対の声明を出すなど、対立は現在も続いている。パルヌ川で起きたことは、この長い論争の縮図でもある。
ほかにも、失われたものはある。ダムそのものがパルヌ県の観光名所のひとつだったし、水位の変化に伴って周辺の敷地では井戸を掘り直す必要も生じた。自然を取り戻すという行いは、何かを無傷のまま元に戻すことではない。
日本にも、ダムを撤去した川がある ― 熊本・荒瀬ダム
日本で「本格的なダム撤去」と呼べる事例は、いまのところ一つしかない。熊本県八代市、日本三大急流のひとつ球磨川にあった荒瀬ダムである。
まず規模を確かめておきたい。荒瀬ダムは堤高25メートル、堤頂長210.8メートル、総貯水容量1,014万立方メートル。エストニアのシンディ・ダム(幅151メートル、高さ4.5メートル)よりも、はるかに大きい。1954年12月に発電を開始し、当時は熊本県内の電力のおよそ16%を賄った。年間約7,500万キロワット時、一般家庭にしておよそ2万世帯分である。
その電気は半世紀にわたって県の経済を支えた。一方で、ダム湖には泥土がたまり、放流のたびに振動が起き、洪水のたびにヘドロが家に入るようになった。地元から撤去を求める声が上がる。2002年、県は撤去の方針を決めた。
ここから先が、この事例のいちばん興味深いところだ。方針は、いったん覆された。費用を理由に、撤去は取りやめになりかけたのである。それを押し戻したのは、球磨川漁協だった。ダムの水利権を更新するには、漁協の同意が要る。漁協はそれを認めなかった。2010年、県はあらためて撤去を決めている。
同年3月31日に水利権が失効して発電が止まり、2012年度から6年をかけて本体が取り除かれた。完了は2018年3月。高さ15メートル以上という河川法上のダムとしては、国内初の撤去だった。
工事の進め方にも、エストニアと重なるものがある。県は学識者・河川管理者・地元自治体・漁協・住民代表からなる検討委員会を設け、撤去の方法を議論した。そして球磨川の代表的な魚であるアユの生息に配慮して、川の水に触れる工事は11月中旬から2月末までに限るという制約を、自らに課している。工期を6段階に分け、6年かけたのはそのためだ。
一つ外しても、上流にもう一つある
撤去の効果は、はっきり現れた。ダム湖に堆積していた小石が下流へ流れ出し、河原は短期間でダム建設前の姿に戻った。アユがひれで動かせる3センチほどの小石が敷き詰められた、かつての産卵場である。
だが2019年、撤去の開始前から各地点の河原を調べ続けてきた自然観察指導員のつる詳子さんは、変化が反転しはじめたことを報告している。堆積していた小石が流れ尽きたのに、新しい小石が上流から供給されない。荒瀬ダム跡の上流約8キロに、瀬戸石ダムが残っているからだ。河原はふたたび、大きな石ばかりになりつつあるという。
ダムを一つ外しても、川は一つながりにはならなかった。
条件の違いは、ここにも表れている。シンディ・ダムは河口から14キロ、回遊魚が最初に突き当たる関門だった。だから一つ外せば、3,300キロの水系が開いた。荒瀬ダムは河口から約20キロ。しかしその上流には瀬戸石ダムがあり、下流には遙拝堰がある。同じ「撤去」でも、川全体のなかでその一つがどこに位置するかで、意味がまるで変わる。
費用の出どころも違う。エストニアの総事業費1,500万ユーロは、85%をEUの結束基金が担った。荒瀬ダムの撤去は、熊本県が自ら負担している。国境を越えた基金が背中を押す仕組みは、日本にはない。
それでも、二つの川に共通していることがある。どちらも、決めたのは流域に住む人たちだった。エストニアでは政府が着工を1年半遅らせて住民と話し合い、球磨川では漁協が水利権の更新を認めなかった。技術の話ではない。誰が、何をもって「否」と言えるのか。その権限がどこに置かれているかが、川の姿を決めていた。
<祈りによせて
ヨーロッパの川には、何十万もの堰やダムが残されている。その多くは小さく、そして多くはもう役目を終えている。かつては誰かの暮らしを支えたはずの構造物が、いつのまにか、ただそこにあり続けるだけのものになる。パルヌ川で起きたのは、人が築いたものを人が取り除くという、ごく単純な行いだった。けれどその単純な行いに至るまでに、数十年の議論と、1年半の対話が必要だった。壊すことより、話し合うことのほうに時間がかかったのだ。川がふたたび自分の速度を取り戻すために要した時間の大半は、人が人と向き合うために使われていた。
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参考・引用元
- Dam Removal Europe「Sindi Dam, Estonia」:damremoval.eu
- 欧州委員会 Natura 2000 Award「Improving the Pärnu river basin for its migratory fish」:environment.ec.europa.eu
- Rewilding Europe「Estonia's massive dam removal efforts highlight benefits of river restoration」:rewildingeurope.com
- Interreg Europe「Restoration of the Pärnu River Basin ecosystem and free flow of the river」:interregeurope.eu
- FAO「New European plan aims to curb cormorant impacts on fisheries」(2025年):fao.org
- Wetlands International Europe「カワウ管理計画案への反対声明」(2025年):europe.wetlands.org
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- 熊本県企業局 荒瀬ダム撤去準備室 堀内眞二「荒瀬ダム撤去工事の概要について」(九州技報 第52号、2013年1月/事業主体である熊本県職員による報告):k-keikaku.or.jp
- 八ッ場あしたの会「荒瀬ダム跡 調査見学会 薄れる撤去効果」(2019年8月9日/毎日新聞熊本版2019年8月8日を全文引用。ダム事業に批判的な立場のNGO):yamba-net.org