2026年の春、南イラクの湿地に水が戻ってきた。数年の干ばつで干上がり、ひび割れた大地に取り残されていた木の小舟のまわりに、ふたたび水がにじみ、葦が伸び、水牛が身を沈める。渡り鳥が舞い、その姿が水面に映る。「土地は乾いていた。でも今、また生き返った」——水牛飼いのラヒーム・アブドゥル・ザフラさんは、そう語る。ここは「エデンの園」とも呼ばれる、メソポタミア湿地だ。
文明のゆりかごを、干上がらせた
チグリス川とユーフラテス川——「川のあいだ」を意味するメソポタミアは、文字も、数学も、車輪も、都市も、そして「時間」の概念すらも生んだ、人類文明のゆりかごだ。その南端に広がる湿地アフワールは、古代シュメール人の末裔とされる「湿地アラブ(マアダーン)」が、葦の家を建て、水牛を飼い、魚を獲って、5,000年にわたり暮らしてきた場所。2016年にはユネスコ世界遺産に登録された。
だが20世紀末、この水郷は意図的に破壊された。1991年の蜂起のあと、葦原に身を潜めた反体制派を締め出すため、サダム・フセイン政権は巨大な運河と堤防で二つの大河の流れを湿地からそらし、その約9割を干上がらせた。チバイシュの町の人口は、1990年の6万3千人から10年足らずで5千人に激減した。かつて50万人といわれたマアダーンは2003年には2万人ほどに減り、10万人を超える人々が国を逃れ、4万人以上がイランへ渡った。文明を育てた水そのものが、武器として奪われたのだ。
つるはしで、堤防を壊した日
転機は2003年に訪れた。サダム政権が倒れると、戻ってきた住民たちは、自らつるはしを手に、水をせき止めていた堤防を打ち壊した。水は、記憶をたどるように、乾いた大地へと戻っていった。
この再生を、イラク人自身が担った。ナシリヤ育ちの技師アッザム・アルワシュさんは、政権を逃れて米国で20年暮らしたのち、快適な生活を捨てて2003年に帰国し、住民主導の再生を率いた。同氏が創設したのが、イラク初の環境NGO「ネイチャー・イラク」だ。「私の仕事は、種をまくことだ」と同氏は言う。まいた種は、やがて茂みになり、ときに木になる、と。
現場を長く支えてきたのが、共同創設者のジャシム・アル=アサディさんだ。中央湿地に生まれた水利技師で、サダム政権下で投獄・拷問を受けながらも、生涯を湿地の再生に捧げてきた。住民とともに「湿地を救う国民キャンペーン」を立ち上げ、水資源省と連携して、戻ってくる水の量を測り続けている。歩みは実を結び、2013年には湿地はイラク初の国立公園に指定された。そして2025年から26年にかけての冬、久しぶりの降雨とダムからの放流で、水没していた湿地の割合は、この5年で最低の8%から32〜36%へと回復した。魚が戻り、葦が伸び、家を追われた家族の一部が、少しずつ帰りはじめている。
甦る、しかし脆く
だが、希望に居着くにはまだ早い。この回復は、雨とダム放流に頼った、季節的で部分的なものだ。より深い脅威——上流のトルコやイランでのダム建設と取水、そして気候変動——は、手つかずのまま残っている。2009年以降、大きな干ばつは4回を数え、2021年から続くものは史上最悪とされる。回復のさなかでも、水牛の群れは各地で激減し、漁は細り、2018年以降17万人を超える人々が土地を離れた。
イラクで自然を守ることには、危険もつきまとう。アル=アサディさんは2023年、バグダッドへ向かう途上で武装集団に拉致された。動機は不明のまま、2週間後に解放された同氏は、体は痛めつけられても意志と魂は屈しなかったと綴り、ふたたび湿地へ戻った。
それでも、進むべき道はある。アルワシュさんは、水を紛争の火種ではなく「平和の道具」にしようと、二つの大河を分かち合うトルコ・イラン・イラクの三国協調を説き続ける。イラクの水の約6割は、3月末から5月初めのわずか2か月に集中する。その季節の氾濫が塩を洗い流し、周辺の農地を潤してきた。誰が、この水を、どう分かち合うのか——問われているのは、川の水をめぐる決定権そのものだ。
祈りによせて
文明を築くのは人間だが、その文明を生かしてきたのは水だった。切りすぎた森とともに滅んだ古代文明があったように、根を断たれた文明は続かない。メソポタミアの人々がいま取り戻そうとしているのは、単なる景色ではない。自分たちの暮らしを支える水の根であり、自然とともに生きるという、いちばん古い知恵だ。水は戻り、また引くかもしれない。それでも、つるはしで堤防を壊した手が、種をまく手が、この土地にはある。希望を持ちながら、その希望に居着かない。ゆりかごの水辺で、暮らしを立て直そうとする人々のために、静かに祈りを捧げたい。
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参考・引用元
- Al Jazeera「Iraq’s marshes revived: Long-awaited rains bring life back to wetlands」(2026):aljazeera.com
- The Japan Times / Reuters「Iraq’s historic marshes revive as water returns after years of drought」(2026):japantimes.co.jp
- Jacobin「Iraq’s Ancient Marshes Are Running Out of Time」(2025):jacobin.com
- Goldman Environmental Prize「Azzam Alwash」:goldmanprize.org
- Jadaliyya「The Ghosts of Iraq’s Marshes(Lonergan & Al-Asadi)」(2024):jadaliyya.com
- The National「Iraq environmental activist Jassim Al Asadi freed two weeks after kidnapping」(2023):thenationalnews.com
- United Nations Iraq「The Mesopotamian Marshes: A World Heritage on the Brink」:iraq.un.org
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