2026年8月、スコットランド政府の土地基金が、ある島の住民組織に108万2,680ポンドの交付を決めました。使い道は、彼ら自身が暮らしている土地を買うこと。アウター・ヘブリディーズ諸島、ハリス島の南部。およそ27,000エーカー(約1万1,000ヘクタール)に274のクロフト(小規模な借地農)が散らばり、2,050人ほどが暮らしています。話が始まったのは2012年でした。14年が経っていました。
「湾々」という地名が指しているもの
この一帯は「ベイズ・オブ・ハリス」——ハリスの湾々、と呼ばれます。島の東岸で、岩が多く土は薄い。一方、西岸には貝殻砂が積もってできた肥沃な草地が広がっています。
もともと、人々が暮らしていたのは西と南でした。19世紀に入ると、その肥沃な土地は本土から来た資力ある農場主に貸し出され、村は一つずつ人が払われていきます。1840年代までに西岸はほとんど無人になりました。追われた人の一部は東岸の湾々へ移り、多くは大西洋を渡ってカナダのケープ・ブレトンへ向かいました。
つまり「湾々」は、人が選んで住み着いた場所ではありません。押しやられた先の名前です。今回、住民が買おうとしているのは、その土地です。
1886年に守られたもの、残らなかったもの
1886年、クロフター保有法が成立します。これによって、以後の強制退去は法的に封じられました。地代についても、不当だと思えば裁判所に決定を求められる。実際、2013年にはこのエステートのクロフターの一人が、スコットランド土地裁判所に自分の借地の適正地代の決定を申し立てています。
ただ、守られたのは「借り続ける権利」でした。土地をどう使うか、どこに何を建ててよいかを決める権利は、地主の側に残りました。この「守られているが、決められない」という状態が、その後140年続きます。
5,000ポンドで売られた「ロット8」
1925年、島の所有者だったレバーヒューム卿——石鹸会社リーバ・ブラザーズ、現在のユニリーバの前身を築いた人物——が亡くなります。ハリスは10の区画に分けられ、資産整理のために売りに出されました。
そのうちの「ロット8」を、イングランド南部サリーに住むヒッチコック家が5,000ポンドで購入します。取得は1926年3月。以来ちょうど100年、この土地は同じ一家の所有です。エステートが東岸のベイズ、南西のノーストン、そして少し離れたベルネレー島という地理的にばらばらな3つの部分からなるのは、この「まとめ売り」の名残です。
所有者側は、10年にわたって地域の代表と話し合ってきた、正式な住民投票の結果は極めて重く受け止める、と2022年に地元紙に語ったと報じられています。自分たちが不在地主であることは全面的に認める、ただし不在であることと無関心であることは別だ、とも述べたとされます。この物語には、悪役がいません。
一人ひとりは買えた。買えないものが残った
1976年、クロフティング改革法が成立します。クロフターは、自分のクロフトを年地代の15倍で買い取れるようになりました。クロフトの年地代は名目的な額にとどまることが多く、買い取り価格そのものは小さい。多くの人がこの権利を使いました。ベイズ・オブ・ハリスでも、1926年以降におよそ540件の「切り離し」——売却されて自由保有地になった土地や建物——が生じたと、住民組織は記しています。
ただ、そうして買えたのは足元の数エーカーと家の敷地まででした。共有の放牧地、前浜、鉱物権、狩猟権、そして「どこに家を建ててよいか」を決める権利は、エステートの側に残り続けます。今回の売買対象が33,870エーカーに及び、そこに狩猟権・鉱物権・前浜・沖の島々が含まれているのは、それらが100年間ずっと地主の手にあったからです。
個人で買えるものは買われ、個人では買えないものが残った。住民が共同で買おうとしているのは、その残りのほうです。
ちなみに、この1976年の法律には後日談があります。買い取ったクロフターの法的な位置づけが長く宙に浮いたままで、「所有者クロフター」という言葉が法律に定義されたのは2010年のことでした。制度が先に道を用意したのではなく、人が先に歩き、法が34年遅れて追いついた。この土地では、たいてい順番がそうなります。
14年、そして半年の宙づり
2012年、住民集会が重ねられ、圧倒的多数が「実現できるかどうか調べてみよう」と推進グループの設置に賛成しました。実現可能性調査と事業計画がまとまるまでに10年。2022年9月の住民投票では、投票率70%のうち63%が買い取りに賛成しました。翌2023年7月、住民組織が法人として登記されます。登記住所は島内の一軒の家です。
2025年8月、所有者一家との間で購入の基本合意。そして2026年2月、土地基金は申請を受理して「全額拠出可能」と確認しながらも、当期のうちに購入が完了しないリスクが高すぎるとして、交付を次期へ繰り延べました。会長は、選挙後に新しい基金が動き出せば拠出されるはずだと述べています。
その半年後の2026年8月、交付が決まりました。交付金は購入費、法務費用、そして初年度のエステート・マネージャーの人件費までを含みます。境界の詳細な測量を含む法的手続きを進め、年内の完了を目指す段階です。14年目にして、最後の一歩の手前まで来ました。
地代は下がらない。それでも買う理由
ここで、少し意外なことを住民組織自身が説明しています。買い取っても、クロフターの法的権利は変わりません。既存のクロフティング法で保護されているからです。地代も上げる必要がない——エステートの収入で運営費は賄えるから、というのがその理由です。
つまりこの買い取りは、救済ではありません。地代からの解放でも、立ち退きからの避難でもない。
変わるのは二つだけです。ひとつは、年間8万4,283ポンド(2021年)というエステートの収入が、どこへ行くか。運営費を賄ったうえで、手頃な住宅の供給、雇用の創出、クロフティングの支援に回せる、と事業計画は見積もっています。もうひとつは、その使い道を誰が決めるか。
この二つが、いま一番の困りごとに直結します。この地域は1987年に「脆弱地域」に区分されて以来ずっとその区分にあり、雇用・所得・人口流出・サービスへのアクセスで見て、スコットランドの農村部で下位30%の困窮地区に入ります。若い世代が島を出ていき、空いた家は別荘になる。手頃な住宅がないことが、推進側が挙げる「一番の懸念」です。
住民組織の設計は、この一点に向いています。株式を発行しない保証有限責任会社なので、利益を誰かに分配することはできません。議決権を持つ会員は「この地域に住む16歳以上」に限られ、島の外の支援者は議決権のない会員として参加します。会費は無料。現在の会員は250人ほど。購入が完了すれば暫定理事会は退任し、会員が新しい理事会を選びます。その新理事会の最初の仕事は、エステート・マネージャーを雇うこと——島にひとつ、新しい仕事が生まれます。
買い取りは、終わりではない
コミュニティが土地を持てば、それでうまくいく——という話ではありません。
スコットランド西岸のウルヴァ島は、2018年に土地基金の440万ポンドで買い取られました。住民16人、5,000エーカー。買い取り後、家は改修され、人口は増え、農業も戻りました。けれど運営を担ったのは、隣のマル島側にある別の団体でした。住民の一人は、いまも別の地主の借家人のように感じることがある、と調査報道メディアに語っています。人口が増えて水源が足りなくなり、再稼働させた貯水池から出る水は泥炭色に濁りました。住民は2022年から水を煮沸し、月35ポンドの水道賦課金を払い続けました。中間支援団体は、理事会と住民の関係が悪化していると報告しています。理事側にも言い分はあり、浄水設備の導入は進んでいます。そして双方が一致して挙げた原因は、ボランティアの理事会とパートタイム職員2人という体制の限界でした。「コミュニティ所有」と一言でいっても、所有する共同体と、そこに暮らす共同体が同じとは限りません。
ハリスは住民2,050人、議決権は居住者に限られています。ウルヴァとは条件が違う。それでも、買い取りが始まりであって終わりではないことは、同じです。
もうひとつ。賛成63%は、37%の反対があったということでもあります。所有者側は、全体の過半数が賛成すれば、特定の地区の住民がどう投票したかにかかわらずエステート全体に適用されるという立場をとってきました。決定権が住民の手に来る物語の内側にも、決定に従うほかない人がいます。
そして皮肉なことに、権利が守られた結果、権利そのものが高価な資産になりました。スコットランド政府は2024年の協議文書で、クロフトの市場価格が近年大きく上昇し、資力の乏しい人々、とりわけ伝統的なクロフティング家庭の若者が自分のクロフトを持つことがはるかに難しくなった、と自ら記しています。原因は、遠隔地の土地と暮らし方への需要です。
全体の流れも、この一件とは逆を向いています。土地所有の集中を長年記録してきた研究者アンディ・ワイトマンの年次報告によれば、私有の農村地の半分を所有する人数は2012年の440人から2025年には408人へと減りました。集中は緩むどころか進んでいます。
祈りによせて
14年という時間の中身は、地味なものだったはずです。公民館での説明会。何度も更新された事業計画。二度の資産評価。うまくいくかどうか分からないまま続いた話し合い。推進の中心にいた一人は、長い勝負を続けた結果だ、ただたどり着くまでにずいぶん長くかかった、と語ったと報じられています。
1886年に、この島の人々は住み続ける権利を得ました。1976年に、足元の土地を買う権利を得ました。それでも、決める権利は別の場所にありました。2026年、それがようやく動こうとしています。地代は変わらず、暮らしも劇的には変わらないでしょう。それでも、家をどこに建てるかを自分たちで決められるようになる。ただそれだけのことに、14年かかりました。
押しやられた土地に住み続け、その土地を自分たちのものとして引き受けようとする人々がいます。うまくいくかどうかは、まだ分かりません。それでも、決めることを引き受けようとする人がいる場所には、次に起きることを選べる余地があります。その余地が、この島にも、ほかのどの場所にも、少しずつ広がっていきますように。
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イギリスが平和でありますように
参考・引用元
- STV News「西部諸島の27,000エーカーのエステート買い取りに向け、住民団体が資金を確保」(2026年8月5日):news.stv.tv
- Bays of Harris Community Estate「History」(住民組織による自媒体):baysofharris.org
- Bays of Harris Community Estate「Become a member」(住民組織による自媒体):baysofharris.org
- Community Land Scotland「ベイズ・オブ・ハリス・エステートのコミュニティ所有:よくある質問」(2022年8月):communitylandscotland.org.uk
- Companies House(英国政府 会社登記)BAYS OF HARRIS COMMUNITY ESTATE LIMITED (SC775409):find-and-update.company-information.service.gov.uk
- スコットランド政府「クロフティング法改正提案2024:協議文書 1. Entry to Crofting」(2024年6月6日):gov.scot
- The Ferret「コミュニティ買い取り後、ウルヴァ島で対立」(2024年9月22日):theferret.scot
- Andy Wightman「Who Owns Scotland 2025」(2026年2月23日):andywightman.scot
- Hebrides People「西部諸島からの移民小史」※検索スニペットのみ・本文未取得:hebridespeople.com
- Stornoway Gazette「ベイズのエステート所有者、対話に前向き」(2022年6月)※検索スニペットのみ・本文未取得:stornowaygazette.co.uk
- Stornoway Gazette「ついに ― ベイズ・オブ・ハリス買い取りが実現へ」(2026年8月)※検索スニペットのみ・本文未取得:stornowaygazette.co.uk
- Dèthadol Harris「ベイズ・オブ・ハリス・エステートのコミュニティ所有に向けた進捗」(2026年2月)※検索スニペットのみ・本文未取得:dethadolharris.com
- スコットランド土地裁判所 Macleod v Hitchcock (2013年)※検索スニペットのみ・本文未取得:scottish-land-court.org.uk
関連ページ
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