
「昔は夜に少し潜るだけで、サンゴを隠れ家にしていた魚を捕ることができた」。沖縄・石垣島の漁師、小林鉄郎氏は、そう語ります。彼が振り返るのは、まだそう遠くない日々の海のことです。色とりどりのサンゴ礁が広がり、魚の影が揺れていた、あの海。けれども今、その風景は急速に失われつつあります。
失われゆく海を前に、漁師たちは網を置いてサンゴを育てる道を選びました。マグロを追い、モズクを養殖する手で、今度は小さな命を海に還していく。その地道な歩みが2024年、国内初の快挙へと結実しました。
白くなっていく海 ― 失われた7割のサンゴ
沖縄・八重山諸島には、日本最大のサンゴ礁「石西礁湖(せきせいしょうこ)」が広がっています。日本に生息する造礁サンゴの約8割が、この琉球列島の海に集まります。豊かな漁場であり、観光資源であり、台風から島を守る天然の防波堤でもある。島の人々の暮らしと文化を、サンゴ礁が静かに支えてきました。
その海が、白くなっていきました。2016年、石西礁湖の約7割のサンゴが「白化現象」によって消失したと推定されています。海水温の上昇、オニヒトデの大量発生、赤土の流入。さまざまな要因が絡み合い、サンゴから共生藻類が抜け、骨格だけが白く残されていく。色彩を失った海は、やがて魚たちの姿も失っていきます。
白化はその後も繰り返されました。2022年、2024年、そして2025年。「白化で死んでしまうスピードが、天然サンゴの回復スピードを上回っている」。専門家のこの言葉が、いまの海の現実を物語っています。
「サンゴや魚が豊かだった世界を、少しでも残したい」
八重山漁業協同組合のサンゴ種苗生産部会、わずか11名。普段はマグロ漁やモズク養殖を生業とする現役の漁師たちです。砂川政彦部会長のもと、彼らは2017年から崎枝湾でサンゴを育てる活動を始めました。
動機は素朴で、強いものでした。「サンゴや魚が豊かだった世界を、少しでも残したい」。豊かだった海を知る世代が、自分たちの手で次の世代に何かを残そうとしている。誰かに頼まれたわけでも、義務があるわけでもありません。海とともに生きてきた人々の、海への返礼のような営みです。
国立研究開発法人水産研究・教育機構の鈴木豪主任研究員から技術指導を受けながら、漁師たちは見よう見まねで学んでいきました。サンゴの卵を採取し、精子と受精させ、稚サンゴを着床具に定着させる。それを海に戻し、見守る。本業の合間を縫って、海に出ては潜り、棚を整え、稚サンゴの様子を確かめる日々。気の遠くなるような作業の積み重ねでした。
2024年5月、海の中で起きたこと
2024年5月22日の夜、崎枝湾の海中で小さな奇跡が起こりました。漁師たちが卵から育ててきたウスエダミドリイシのサンゴが、一斉に産卵を始めたのです。月明かりに照らされた水中で、ピンク色の卵塊が静かに舞い上がっていきました。そしてその精子と受精した幼生が、用意されていた着床具に付着していたことが、6日後に確認されます。
サンゴの「2代目」が誕生した瞬間でした。漁業者の手で完全養殖を実用化したのは、国内で初めてのこと。卵から育て、産卵させ、また次の世代を生み出す。海の命の循環を、人の手で支えられることが証明された出来事です。
同じ年の夏、もう一つの朗報が届きます。漁協が育成中のサンゴの約9割が、激しい高水温による白化を免れたのです。漁師たちは夏場、より水温の低い水深13メートル地点まで養殖棚を移動させる工夫を導入していました。経験と勘、そして海への深い理解から生まれた一手が、小さな命たちを守りました。2020年から育てているサンゴ約300群体が、いまも崎枝湾の海でゆっくりと成長を続けています。
5年の時間と、支える人々
サンゴが卵から育ち、新たに約200万個を産卵できるようになるまでには、5年の歳月と約500万〜600万円の費用がかかります。漁師たちだけでこの長い時間を支えるのは難しい。そこで2020年に立ち上がったのが「有性生殖・サンゴ再生支援協議会」です。日本トランスオーシャン航空(JTA)や八重山観光フェリーなど、地元と関わりの深い7社1団体が、資金と広報の面から漁協の活動を支えてきました。
そして2026年へ ― 「面的増殖」という大きな夢
2025年度で、第1フェーズの6年間が終わります。崎枝湾で種苗10,000群体の生産を目標に、漁師たちは黙々と歩みを続けてきました。そして2026年度から、活動はいよいよ次の段階へと進みます。
八重山漁協が描く長期構想は壮大です。まず、漁師たちが直接管理する「種苗生産拠点」を作る。次に、そこから幼生が周辺海域へと自然に拡散していく「産卵ファーム」を広げる。さらにその外側に、多様なサンゴ種が集まる「サンゴ群集」を形成していく。人の手が直接届く小さな範囲から、自然の力で広がっていく大きな海へ。漁師たちは、自然と人の営みが手を取り合うサンゴ礁再生のモデルを、石垣島の海から世界に示そうとしています。
新フェーズに向けて、協議会は参画する企業・団体の拡大を目指しています。すでに2022年からは久米島漁業協同組合への技術支援も始まっており、八重山で培われた知恵が他の海域へと広がりつつあります。「サンゴ礁は漁業とも密接に関わるため、持続的な漁業を可能とするには、漁業者も海を育む活動をすることが大切」と、久米島漁協の田端裕二組合長は語ります。漁師から漁師へと手渡される技術と思いが、沖縄の海全体を再生させていく道筋が見え始めています。
漁協側はまた、サンゴの環境学習ツアーを企画し、観光客や地元の小学生たちに海の現状を伝える試みも進めています。子どもたちが海に潜り、漁師たちが育てたサンゴを目にする。その経験は、次の世代に海を守る心を手渡していくはずです。海の命を未来へつなぐ営みは、技術だけでなく、世代を超えた人の心の継承によっても支えられていきます。
祈りは、海とともに
派手な報道や大きなスローガンとは無縁のところで、漁師たちは今日も海に潜っています。卵を集め、棚を整え、稚サンゴが順調に育っているかを目で確かめる。その営みのひとつひとつが、未来の海を作っています。
世界の平和を願うとき、私たちは人と人の関係に目を向けがちです。けれども、私たちが暮らすこの地球そのものを守ることもまた、平和への祈りの一部であるはずです。海が死に絶えれば、そこに依存する漁業も、観光も、文化も、やがて失われていきます。海を守ることは、未来の世代の暮らしを守ることに直結しています。
石垣島の海の中で、ひそやかに育てられているサンゴたち。その小さな命が、いつか石西礁湖をかつての豊かさへと戻していく日を信じて、漁師たちは今夜も海を見つめています。彼らの静かな営みに、遠くから祈りを重ねたいと思います。
参考・引用
- 「有性生殖」の完全養殖成功 八漁協サンゴ部会(八重山毎日新聞、2024年5月)
- 八重山漁協の養殖サンゴ、9割が白化を回避 水温対策が奏功、その方法は?(琉球新報、2024年11月)
- 「サンゴや魚が豊かだった海を残したい」 有性生殖に漁師奮闘 八重山漁協、環境学習ツアーで収益化に意欲も(沖縄タイムス、2024年10月)
- 久米島サンゴ再生支援(QAB琉球朝日放送、2022年5月)
- 八重山漁業協同組合サンゴ種苗生産部会 公式サイト
- 有性生殖・サンゴ再生支援協議会 公式サイト