2026年2月15日、太平洋に浮かぶ島国パラオの港から、一艘の双胴カヌーが静かに出航した。名はAlingano Maisu(アリンガノ・マイス)。全長約17メートルのその船には、GPSも羅針盤もレーダーもない。13人余りのクルーが頼りにするのは、星の道筋と、海のうねりと、風と雲、そして渡り鳥の動きだけだ。何千年も前から島々を結んできた、機器に頼らない航海術。それを次の世代へ手渡すための、長い旅の始まりだった。
失われかけた、海を読む技
かつて太平洋の島々では、航海術は一族のなかだけで密かに受け継がれる、門外不出の知識だった。だからこそ、その担い手が絶えれば技も消える。20世紀には、いくつもの「航海の流派」がそうして失われていった。
その流れに抗ったのが、ミクロネシア・サタワル島出身の伝説的航海士、故マウ・ピアイルグ氏だった。彼は一族の枠を越え、航海術がほとんど失われかけていたハワイの人々に、星を読む技を惜しみなく伝えた。その姿勢は、ときに「神聖な知識を外に漏らした」という批判も招いた。だがマウ氏は、ハワイから贈られたこの双胴カヌーに「Alingano Maisu」——「落ちたパンノキの実の美しさを示す」という意味——と名づけた。熟して地に落ちたパンノキの実が、求める誰もが拾えるように。技もまた、分かち合われてこそ生き続ける。その信念が、船の名に刻まれている。
父の夢を継ぐ航海士
このカヌーで舵を握るのは、マウ氏の息子であるグランドマスター航海士、セサリオ・セウラルル氏だ。サタワル島で4歳から星座と星の名を学び、嵐を告げる「storm star」の読み方を体に刻んできた。2007年にパラオへ渡って以来、パラオ・コミュニティ・カレッジで若者たちに航海術を教え続けている。今回の航海も、台湾・沖縄・グアム・ヤップなどを巡りながら、各地の学校やコミュニティと交流する「動く教室」として構想された。乗り組んだのは、パラオ、ハワイ、ヤップ、グアム、台湾、そして北マリアナ諸島の若いクルーたち。船そのものが、島々をひとつの家族として結び直す場になっていた。
嵐が、進路を変えさせた
2月の出航は、本来この海域で台風が増える5月以降を避けた、理にかなった時期どりだった。だが2026年は様子が違った。西太平洋では1月から異例の早さで嵐が生まれ、4月には超大型の台風シンラクが発生する。1953年以来、4月としては史上2番目に強いとされたこの台風は、マリアナ諸島に甚大な被害をもたらした。当初は6,200マイルを巡り、グアムやサイパンにも寄港する計画だったが、安全のため進路は何度も変えられ、いくつかの寄港地は断念された。海を熟知した航海士たちでさえ、近年の荒れやすい空模様の前では、引くべきときを見極めねばならなかった。
クルーは熱帯擾乱の合間を縫うように舵を切り、最終的にその擾乱を抜けて、無事にパラオへとたどり着いた。実際に渡った距離は4,280海里。計画どおりではなかったが、海の機嫌に逆らわず、自然を読んで生き延びるという航海術の本質そのものが、この判断には宿っていた。
クルーの一人、20歳のリアナリン・ムナさんにとって、これが初めての外洋横断だった。「陸が見えず、電話もなく、近代的な航海機器もない。食べることも、眠ることも、すべてに適応しなければならなかった」と振り返る。それでも「船長とクルーとカヌーを信じていたから、危険を感じたことはなかった」という。夜の海ではイルカが現れ、海面が生物発光でターコイズ色に輝いた。「電話には収められない。すべて記憶の中にある」と、その人は静かに語った。
星は、いつもそこにある
セウラルル船長がムナさんに伝えた言葉がある。「星はいつもそこにある。見えないときでも、導くためにそこにいる」。雲に覆われ、星が見えない夜もある。それでも星は消えたわけではない。見えなくても、たしかにそこにあると信じて舵を取る——その姿勢は、航海術を越えて、生きることそのものへの知恵のようにも響く。5月11日にパラオへ帰着したカヌーは、家族や友人たちの温かな歓迎を受け、5月末には正式な帰還の式典が開かれた。
祈りによせて
ひとつの技が、一族の枠を越え、島々を越え、世代を越えて手渡されていく。Alingano Maisuの旅は、計画どおりの完走ではなかったかもしれない。けれど、嵐に進路を阻まれながらも自然を読んで帰り着いたこと、若い航海士たちが海の上で確かに何かを受け取ったことこそが、この航海のいちばんの実りだった。落ちたパンノキの実のように、分かち合われた知恵は枯れることなく、次の手へと渡っていく。
海を渡る人々の上に、いつも導きの星がありますように。失われかけた技が次の世代の手で生き続け、島々がひとつの家族として結ばれ続けますように。
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参考・引用元
- Island Times「Alingano Maisu Returns Safely to Palau After Typhoon Forces Route Change」(2026年6月):islandtimes.org
- Isla「Voyaging canoe returns to Palau」(2026年5月12日):islapublic.org
- Isla「CNMI daughter completes 18-day voyage on the Alingano Maisu」(2026年6月3日):islapublic.org
- Taipei Times「Traditional Palauan canoe arrives in Kaohsiung」(2026年3月8日):taipeitimes.com
- Micronesian Voyaging Society 公式サイト:micronesianvoyagingsociety.com