タイ南部のコ・リボン島。チプサ・サンサワンさんが見つめる遠浅の海は、いまはただ白い砂が広がるばかりです。「かつては、サッカー場のように一面が緑だった」。子どもの頃、その緑の海草の上を、たくさんのジュゴンがのんびりと草を食みながら泳いでいました。魚やカニや貝も豊かに暮らす、いのちのゆりかご。その光景が、わずか数年で消えてしまったのです。
緑の海が、砂になった
コ・リボンは、かつて東南アジア最大級のジュゴンの生息地でした。2023年には約194頭が暮らし、タイ・アンダマン海岸の個体群のおよそ8割を占めていたといいます。ところが2021年、島で海草の大量枯死が始まりました。2020年から2024年にかけて、主要な生息地の海草はおよそ7割が失われ、豊かだった藻場は黒く枯れた残骸へと変わってしまいます。
餌を失ったジュゴンは、次々と命を落としました。例年は年13頭ほどだった死亡が、2023年と2024年は年平均42頭にのぼります。痩せ細って打ち上げられる個体、餌を求めて慣れない海域へ移り、船と衝突したり漁網にかかったりする個体。コ・リボンのジュゴンは2025年初めには、わずか10頭ほどまで減ったとみられ、生き残った多くは他県の海へと散っていきました。
マリアムと、島の人々
チプサさんがこの海に人生を捧げる原点には、一頭の子ジュゴンがいました。2019年に保護された孤児「マリアム」です。チプサさんは回復チームに加わり、寄り添う日々を過ごしました。マリアムはその愛らしさで全国の人々の心をつかみましたが、救助からわずか114日後、プラスチックの誤飲が一因とされる血液の感染症で息を引き取ります。その死は、海洋プラスチック問題の象徴として、タイ社会に大きな問いを投げかけました。
マリアムを失った悲しみは、チプサさんの決意を強くしました。いま、チプサさんが調整役を務めるのが、島の8つの集落にまたがるボランティア網「ジュゴン・ガーディアンズ」です。2011年に始まったこの取り組みは、漁業や潮干狩り、観光で暮らす島の人々が、科学者や行政と手を取り合い、自分たちの海を自分たちで守る試みでした。ジュゴンに優しい操船や漁の方法を広め、生態系の健康を見守る術を住民が身につけ、一時はジュゴンの数も着実に増えていったのです。
移植は、まだ実らない
そこへ襲った、海草の崩壊。正直に書かなければなりません。この危機は、きれいに解決したわけではないのです。学者や学生、住民が力を合わせて続けてきた海草の移植は、これまでのところ成功していません。さらに難しいのは、枯死の根本原因がいまだに分からないことです。研究者も「主な要因はまだ特定できていない」と語り、完全な人為的原因とは言い切れず、気候変動がどこまで影響しているのかも見通せていません。原因が分からなければ、植え直しても再び枯れるかもしれない。それでも島の人々は、市民科学の技術を磨き、試行錯誤の手を止めずにいます。
海草は、ただの草ではありません。魚やカニの育つ場所であり、海岸を波から守り、二酸化炭素を蓄える「ブルーカーボン」の宝庫でもあります。それは、ジュゴンだけでなく、海とともに生きる人々の暮らしそのものを支える土台なのです。
それでも、戻ってくる
小さな兆しもあります。2026年初めの調査では、地域に約33頭のジュゴンが確認され、4月には母子のペアも見られました。ある日チプサさんは、ドローン調査の最中に16頭が草を食む姿を見つけ、「ほっとして、うれしくて、震えました」と振り返ります。それは繁殖というより、他の海域からの帰還を含むのかもしれません。回復と呼ぶにはまだ遠く、失われたものは、あまりに大きい。それでも、海を見守り続ける人々がいる限り、戻ってくるいのちがある――その事実が、確かな希望です。
祈りによせて
原因のわからない喪失を前に、人は無力さに沈みがちです。けれどコ・リボンの人々は、答えが見えないまま、それでも海に向き合うことをやめませんでした。すぐに実らなくても種を蒔き、失われた緑の海を、子どもたちの世代へもう一度手渡そうとしています。
自然と暮らしは、切り離せないもの。その当たり前を取り戻そうとする粘り強さは、争いではなく分かち合いで未来を築こうとする、静かな祈りに似ています。コ・リボンの海にふたたび緑が広がり、ジュゴンがのびのびと泳ぐ日が訪れますように。
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参考・引用元
- Mongabay「Thai island community rallies to protect beloved dugongs, revive declining seagrass」(2026年5月):news.mongabay.com
- Mongabay「Dugong numbers plummet amid seagrass decline in Thailand's Andaman Sea」(2025年4月):news.mongabay.com
- Dialogue Earth「Seagrass loss leaves Thailand's dugongs struggling to survive」(2025年):dialogue.earth
- IUCN「How southern Thailand is pioneering community-led marine conservation」(2026年2月):iucn.org
- Seacology「Libong Island」プロジェクトページ:seacology.org