一杯のコーヒーが、人を故郷にとどまらせることができる——そう聞いたら、大げさだと思うだろうか。メキシコ南部チアパス州のある村では、それが現実になった。コーヒー価格の暴落で男たちが次々と村を去り、北の国境やアメリカへ消えていった2000年前後。残された人々は、誰かに助けられるのを待つのではなく、自分たちでコーヒーを売る道を選んだ。彼らが掲げた理念は、静かだが力強い。「故郷にとどまる権利」である。
集会に、女性しかいなくなった村
標高の高い火山の斜面に抱かれたサルバドール・ウルビナ村は、19世紀末からコーヒーを育ててきた、人口1,600人ほどの小さな町だ。「みんなが互いを知っている」ような共同体だった。だが2000年前後、村の集会に出席するのは女性ばかりになっていた。男たちと若者が、ほとんど皆、村を去っていたからだ。
原因は、コーヒー国際相場の暴落だった。供給過剰などで価格が7割以上も下落し、小さな農家の手取りは1ポンドあたりわずか32セントほどに落ち込んだ。「食べる分の豆やトウモロコシは育てられた。でも、それ以上は何もできなかった」と、ある農家は振り返る。家を広げることも、家族に服を買ってやることもできない。多くの人が、北へ運を試しに行った。国境の町の工場へ、あるいは危険を冒して国境を越え、アメリカへ。村には、出稼ぎ先から送られる仕送りと、残された家族だけが残った。
「コヨーテ」を、断ち切る
転機は、国境の町アグア・プリエタに出稼ぎに来ていた一人の農家、ダニエル・シフエンテスさんの気づきだった。問題の大きな部分は、農家と多国籍企業の間に立つ仲買人にある——チアパスの人々が「コヨーテ」と呼ぶ存在だ。奇しくも、北の国境で移民を斡旋する密航業者と同じ呼び名である。仲買人は小農家から安く買い叩き、売値の多くを自分の取り分にしていた。ならば、その仲買人を断ち切り、農家自身が栽培から焙煎、販売までのすべてを握る協同組合を作ればいい。
2002年5月、シフエンテスさんは、国境地域で活動する米国系の団体「フロンテラ・デ・クリスト」の仲間とともに、故郷サルバドール・ウルビナの農家たちに一つの計画を持ちかけた。フロンテラ・デ・クリストは、貧困や移民の根本原因に取り組む国境のミニストリーで、布教ではなく、暮らしを立て直す事業への支援を担う。同団体からの約2万ドルの融資を元手に、コーヒー焙煎機を購入。チアパスで育てた豆を国境の町アグア・プリエタへ運び、そこで焙煎・袋詰めして、アメリカの消費者に直接売る。仲買人のいない、農家所有のコーヒー会社「カフェ・フスト(公正なコーヒー)」が誕生した瞬間だった。
最初の年の販売目標は1,000ポンド。ふたを開けてみれば、1万3,000ポンドが売れた。翌年は2万7,000ポンド、近年は年5万6,000ポンドへ。25家族で始まった協同組合は、チアパス、ベラクルス、ナヤリットの複数地域・100家族以上へと広がった。借りた資金は、利子をつけてとうに返し終えている。
男たちが、村に帰ってきた
カフェ・フストがもたらした最大の変化は、売上の数字ではない。出ていった人々が、村に帰ってきたことだ。コンクリートの家が建ち、各戸に電話と水が通り、子どもたちが大学へ進むようになった。組合員のグアダルーペ・モラレスさんは語る。「事業は前へ進み、成長してきました。息子が、そして今では孫娘たちが、働いて、学んでいる。息子はカフェ・フストで本当に幸せそうです」。
アロンソ・ロペスさんは、かつてアメリカのアトランタで働いていた。だが両親が恋しく、チアパスに残してきた妻と生後2か月の娘にも会いたかった。ちょうどその頃、父からカフェ・フストのことを聞いた。アメリカで貯めたお金でコンクリートの2部屋の家を建て、帰郷して父とともに働き始めた。今、ロペスさんは幼い娘にこう言い聞かせているという。「しっかり働きなさい。これはお前への遺産なのだから」。コーヒーの木と、それを自分たちの手で売る仕組みごと、次の世代へ受け継ごうとしている。
それは、万能の魔法ではない
もちろん、すべてが順風満帆だったわけではない。ロペスさん自身、帰郷したばかりの頃を正直に振り返る。売上が伸び始めたとはいえ、コーヒーを納めてから支払いを受けるまで1か月ほどかかり、アメリカに残ればよかったと後悔した時期もあったという。協同組合はコーヒーの国際相場という外的な要因に今も左右されるし、その恩恵が及ぶのは村全体のまだ一部にとどまる。カフェ・フストは、移民をめぐるすべてを解決する魔法ではない。
それでも、この物語が指し示すものは大きい。人が故郷を離れるのは、多くの場合、離れたいからではなく、とどまっては生きていけないからだ。ならば希望とは、遠い国の夢ではなく、生まれた土地で家族とともに生きていける「選択肢」そのものなのかもしれない。政府の大きな施策ではなく、農家自身と市民の協働が、その選択肢を一つずつ作り出してきた。
祈りによせて
朝の一杯のコーヒー。その向こうに、火山の斜面で豆を摘み、自らの手で焙煎し、世界へ届ける人々の暮らしがある。「故郷にとどまる権利」——あまりに当たり前に聞こえるこの願いが、どれほど多くの人にとって手の届かないものだったか。カフェ・フストの人々は、嘆く代わりに仕組みを作り、去る代わりにとどまる道を切り開いた。誰かが生まれた土地で、家族とともに、誇りを持って生きていける。その当たり前の幸せが世界の隅々まで行き渡るよう、静かに祈りを捧げたい。一杯のコーヒーの温もりに、その願いを重ねて。
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参考・引用元
- Tucson.com「Mexican coffee cooperative with U.S. customers 'helps build bridges'」(2025年):tucson.com
- Tucson.com「Mexico coffee co-op, with border operations, helping ease immigration pressures」(2025年9月20日):tucson.com
- The Christian Century「Coffee justice in Mexico」:christiancentury.org
- Frontera de Cristo「Café Justo」公式:fronteradecristo.org
- Café Justo(Just Coffee)公式:justcoffee.org