― バングラデシュの建築家が描いた、洪水とともに生きる小さな住まい「自分の手で、自分の家を建てる」― バングラデシュ・ジャマルプル、洪水と暮らす村の小さな革命
バングラデシュ北東部、ジャマルプル県を流れるジャムナ川。雨季がくるたびに、川は家を呑み込み、田畑を消し去ります。住民たちはこれまで、家を失うたびに別の場所へ移り、また家を建て直す ― そんな終わりの見えない作業を繰り返してきました。2022年、新婚の農家ブルブル氏もまた、この厳しい川沿いの土地に移住したひとりです。けれども彼はいま、川と共に暮らすための、特別な家を建てています。「自分の手で、自分の家を建てているんです。誰にも頭を下げずに」。世界の片隅で進む、洪水と共存するための小さな革命の物語です。
毎年5,000ヘクタールが消える国
バングラデシュの国土の最大80%は氾濫原です。1億7000万人が暮らすこの国では、雨季ごとに大規模な洪水と河川侵食が起こり、毎年5,000〜6,000ヘクタールの土地が川に消えていきます。特に被害が大きいのは、ブラフマプトラ川・ジャマナ川・パドマ川の周辺。なかでも「チャール」と呼ばれる川の中州に住む人々は、もっとも脆弱な立場に置かれています。
チャールは、河川の侵食と堆積を繰り返すうちに、2〜3年かけて自然にできあがる低い砂地の島々です。本土から切り離されたこれらの島は、バングラデシュ人口の4〜5%、数百万人の住まいになっています。土地が安く、農業に適しているからです。しかし、その代償は大きい。雨季が来るたびに洪水が家屋を浸水させ、川岸の侵食が住居そのものを呑み込んでいきます。家族の記憶も、社会の絆も、川と一緒に流されていく。ある高齢の農家は研究者にこう語っています。「家はまた建てられる。でも、それは『家』であって『我が家』ではない。あの思い出と、隣人とのつながりは、全部失ってしまった」。
「川と闘うのではなく、共に動く」という発想
ダッカを拠点に活動する建築家マリーナ・タバスム氏は、こうした現実を前に、まったく新しい発想に辿り着きました。川と闘って堤防を築き、無理に土地を守ろうとするのではなく、家のほうが川の動きに合わせて移動すればいい。家を「不動」のものから「可動」のものへと再定義するという、根本的な視点の転換でした。
2020年、タバスム氏のチームが世に送り出したのが「Khudi Bari(クディ・バリ)」です。ベンガル語で「小さな家」を意味するこの住まいは、軽量の竹と鋼鉄製のコネクターで組み立てられるモジュラー構造をしています。3人いれば簡単な道具を使って3日で組み立てられ、解体は数時間。深い基礎は要らず、地面に浅く固定するだけ。それでいて、上層の床は地面から約2メートルの高さにあり、洪水時には家族と家財をそこに退避させて、自分たちの命と暮らしを守ることができます。
建材コストは、プロトタイプ段階で約380米ドル(現在のレートで約6万円)。チャールに暮らす世帯の収入水準を考えると、決して安い金額ではありませんが、家を毎年丸ごと失う損失と比べれば、はるかに現実的な投資です。屋根は運搬しやすい波鋼板、外壁は地域で手に入る素材で仕上げる。設計には、地域に古くから伝わる住まいの形が、さりげなく息づいています。
「知識を、村の人たちの手に渡したい」
けれども、Khudi Bariの本当の革新性は、その建物の構造そのものよりも、つくり方の哲学にあります。タバスム氏はMongabayの取材にこう語っています。「私たちの考えは、知識を地元の人たちに伝えていくことでした。彼らが私たちを必要としなくなるように。自分たちで建てられるようになるように」。
2022年、ジャマルプル県のチャールに18戸のKhudi Bariが建設されました。最初は建築家チームと大工が中心となって建てましたが、村人たちは横で見ながら、ひとつひとつの工程を学んでいきました。そして2026年初頭、村のなかでは、新しい5戸が住民だけの手で建設されています。建築家のチームが提供するのは資材の一部だけ。木材や竹は村人が自分たちで調達し、最終的な組立も自分たちで行います。
新婚の農家ブルブル氏は、その実感を率直に語ります。「大工が見せてくれた。それで、僕らも覚えた。いまは自分たちでできるんです」。誰かに住まいを「与えられる」のではなく、自分たちの手で「建てる」 ― この違いが、人々の表情を変えていきます。「自分の家を、自分の汗で建てている。誰にも頭を下げずに」。その誇りこそが、Khudi Bariが運んできた、目に見えない最大の贈り物なのかもしれません。
小さな家が、広がっていく
これまでに100戸を超えるKhudi Bariがバングラデシュ各地に建てられてきました。タバスム氏のチームは「F.A.C.E.(建築とコミュニティの公平のための財団)」を立ち上げ、この知見をさらに広げる活動を続けています。同じ構造を応用して、女性農家のための集積センターを建てたり、コックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプのコミュニティセンターを建てたり。難民キャンプには永続的な構造物が許されないという制約のなかで、解体・再組立てが可能なKhudi Bariは、暫定的な居場所として人々を支えています。
国際的な評価も続いています。タバスム氏は2024年に米国建築家協会(AIA)の金メダルを受賞。Khudi Bari自体も2025年、3年ごとに優れたイスラーム建築に贈られるアガ・カーン建築賞を受けました。同年にはロンドンのサーペンタイン・ギャラリーの第24回パビリオンも設計し、世界中の建築家や市民が彼女の仕事に触れる機会が広がりました。2025年から2026年にかけては、東京のTOTOギャラリー・間で展覧会も開催され、京都府立大学の建築研究室と協力して「日本版Khudi Bari」も制作されています。バングラデシュの川辺で生まれたアイデアが、世界の他の場所での災害対応にも応用される可能性が、いま静かに探られています。
もちろん、Khudi Bariがバングラデシュの洪水問題のすべてを解決するわけではありません。気候変動はますます激しくなり、ヒマラヤの氷河の融解は将来さらに川の流れを変えていくと予測されています。Khudi Bariはあくまで「災害と共に生きる」ための一つの工夫であり、政府の大規模な再定住プログラム「Ashrayan(これまでに53万世帯を再定住)」のような取り組みと組み合わせていく必要があります。それでも、家を一度に丸ごと失わずに済む、自分の手で建て直せる ― その変化は、暮らしの土台に確かな希望を加えています。
祈りは、川辺の家とともに
「すべての人が、よい建築を持つ権利がある」。タバスム氏のこの言葉は、世界中で繰り返される災害と気候危機の時代に、新しい響きを持ちます。よい建築とは、豪華で目を引くものとは限りません。380ドルの竹と鋼鉄でできた、3日で建つ小さな家でも、その家族の命と尊厳を支えるものであれば、それは紛れもなく「よい建築」です。そしてその家のつくり方を、家族自身の手のなかに置いていけるなら、それは何にも代えがたい贈り物となります。
世界の平和を願うとき、私たちは戦争や対立の話に目を向けがちです。けれども、気候変動による住まいの喪失もまた、静かに進む暴力です。「気候難民」と呼ばれる人々の数は、2050年までに世界で1億5000万人に達するとも推計されています。彼らの暮らしを支える知恵と技術が、当事者自身の手のなかに広がっていくこと ― それは、これからの世界が必要とする、新しいかたちの平和のかもしれません。
ジャマナ川の岸辺で、今日もブルブル氏のような誰かが、竹を切り、鋼鉄のコネクターを締め、自分の家を建てています。川の音と槌の音が重なるその場所に、遠くから祈りを重ねたいと思います。
参考・引用
- Mongabay「In flood-prone Bangladesh, tiny homes are built to move with the river」(2026年5月)
- Aga Khan Development Network「Khudi Bari」(2025年Aga Khan建築賞受賞)
- CNN「Marina Tabassum: Meet the award-winning architect building flat-pack homes for flood victims」
- designboom「Marina Tabassum brings flood-resilient housing and civic architecture to TOTO GALLERY·MA」(2025年12月)
- Prothom Alo「Climate change-induced floods and river erosion devastate Jamalpur communities」(2026年3月)
- The Climate Watch「South Asia's rivers drive rising climate displacement as erosion devours land」(2026年2月)
関連リンク:バングラデシュの平和を祈りましょう