カンボジアの市場や屋台で、いま当たり前のように見かける光景があります。客がスマートフォンで小さなQRコードを読み取り、数秒で支払いを終える――銀行口座を持たない売り手も、手数料なしでその場で代金を受け取れるのです。これを支えるのが、中央銀行が自前で築いたデジタル決済システム「バコン(Bakong)」です。豊かな国の便利さを後追いするのではなく、銀行が行き渡る前に、いきなり「キャッシュレス」へと飛び越えた国の物語です。
なぜ、カンボジアで進んだのか
背景には、この国ならではの二つの事情があります。ひとつは「ドル化」。1990年代の国連統治をきっかけに、コーヒー一杯から車まで米ドルで値付けされるほどドルが浸透し、取引のおよそ8割がドルという状態が長く続いてきました。値段をリエルに換算するには約4,075倍する必要があり、忙しい市場では現実的ではありません。もうひとつは「銀行口座を持たない人の多さ」です。国民の約78%が銀行口座を持たない一方、半数以上がスマートフォンを手にしていました。
中央銀行(NBC)は、この二つを同時に解こうとしました。自国通貨リエルの利用を促して金融政策の主権を取り戻す「脱ドル化」と、銀行のない人々を金融につなぐ「金融包摂」です。通貨そのものが廃止された1975〜79年の記憶を持つ国にとって、自分たちの通貨を取り戻すことには特別な重みがありました。プロジェクトを主導したのは、のちにNBC総裁となるチア・セレイ氏。その目的は、本人の言葉で「簡単・速い・低コストの決済」を、誰もが使えるようにすることでした。
「ほぼ無料」が、扉を開いた
バコンの最大の特徴は、その安さです。他人や他行からお金を受け取るのに手数料はかからず、統一QRコード「KHQR」での店頭決済も無料。少額・多頻度の屋台の取引が無料同然で回るからこそ、売り手はQRコードを貼るだけでよく、普及の障壁が一気に下がりました。低い手数料こそが利用登録の急増を後押ししたと報じられ、2023年末には人口1,700万人に対しておよそ1,000万のウォレットが使われるまでになりました。スマートフォンと身分証さえあれば、銀行口座がなくても口座を開ける――その手軽さが、これまで金融の外にいた人々を内側へ招き入れたのです。
銀行の「手数料モデル」を揺らす
無料に近い決済は、便利さの裏で、銀行のビジネスのかたちを静かに変えていきます。これまで銀行やカード会社の収益の柱だった送金手数料やカード決済の手数料を、中央銀行が運営する公共インフラが置き換えていくからです。もっとも、これは単純な「銀行いじめ」ではありません。すべての銀行に接続が義務づけられた一方で、バコンの残高は各商業銀行の預金に裏付けられる「トークン化された預金」であり、お金そのものは銀行に残ります。手数料で稼ぐ仕組みから、決済量と顧客基盤、そして包摂で支える仕組みへ――その移行のただ中にある、と言えます。
便利さの、影の部分
きれいごとだけではありません。バコンは「ブロックチェーン=分散・自由」というイメージとは裏腹に、中央銀行が握る許可型の仕組みで、あえて一般には公開されず、不正が疑われれば取引や口座を凍結できる強い管理権限を持ちます。利便性と引き換えに、国家が決済を見渡し統制できる側面があることは、見落とすべきではありません。また、脱ドル化はなお途上で、取引額ではいまもドルが優勢です。そして何より、農村部の人々や高齢者、デジタルに不慣れな層、最も貧しい人々は、依然としてこの恩恵から取り残されがちです。便利な仕組みほど、使えない人との差を広げかねない――その「次の壁」は、まだ高いのです。
祈りによせて
お金にアクセスできること。それは単なる便利さではなく、自分の暮らしを自分で営むための、尊厳の土台です。銀行の扉が開かれてこなかった人々が、手のひらのスマートフォンから経済に参加できるようになる――カンボジアの試みは、技術が一部の人の特権ではなく、すべての人の手元へと届きうることを示しています。
同時にこの物語は、技術が「集めて握る力」にも「分かち合う力」にもなりうることを教えてくれます。その分かれ道で、より多くの人を内側へ招き、誰も取り残さない方へ。新しい技術が、人と人を隔てる壁ではなく、つなぐ橋となりますように。
カンボジアの人々のために祈りを捧げる方は、こちらのページへどうぞ。🕊️ カンボジアのために祈る ― 祈りのワールドツアー
参考・引用元
- Ledger Insights「Cambodia's Bakong digital currency helps address dollarization」(2024年):ledgerinsights.com
- Cambodianess「Cambodia's Dual Currency System: How De-dollarization Is Reshaping Daily Transactions」(2026年):cambodianess.com
- Cambodia Investment Review「Blockchain-Based Platform 'Bakong' Could Further Transform Financial Inclusion: AMRO Report 2025」:cambodiainvestmentreview.com
- LF Decentralized Trust「The National Bank of Cambodia boosts financial inclusion with Hyperledger Iroha」(Soramitsu事例):lfdecentralizedtrust.org
- National Bank of Cambodia 公式サイト「Bakong」:bakong.nbc.gov.kh