雪をいただいたアトラス山脈を背に、モロッコの小さな村アクリッシュがある。マラケシュから車で30分ほどのこの村に、樹齢を重ねた果樹の苗が並ぶ温室がある。世話をするのは地元のムスリムの人々。けれどもその苗床が広がるのは、700年の歴史を持つユダヤ教徒の墓地に隣り合う土地だ。信仰の異なる人々が、一本の苗木を間にして手を取り合う——そんな営みが、静かに続いている。
「命の家」と呼ばれる場所
かつてモロッコには25万人ものユダヤ教徒が暮らしていた。15世紀、スペインを追われた人々が北アフリカのこの地にたどり着き、以来ムスリムの隣人たちと長く穏やかに共に生きてきた。だが20世紀、多くのユダヤ教徒が国外へ移り住むと、各地に残された墓地は手入れする人を失い、少しずつ荒れていった。モロッコ全土には、ツァディキム(義人)と呼ばれる聖職者の墓が約600も点在している。
この眠っていた土地に、新しい命を吹き込もうとする試みが「House of Life(命の家)」だ。ヘブライ語で墓地を指す伝統的な呼び名から採られている。ユダヤ教徒コミュニティが墓地に隣接する土地を無償で貸し出し、そこにムスリムの村人のための有機果樹・薬用植物の苗床をつくる。条件はただ一つ、安息日である土曜日には土地を耕さないこと。アクリッシュの苗床は、聖人として敬われるラビ・ラファエル・ハコーエンの墓のかたわらにある。彼の墓は今も世界中から巡礼者を集め、ムスリムやキリスト教徒も敬意を表しに訪れるという。
荒れ地が、みんなの庭になった
「以前はここには植物も水もなく、見捨てられた場所でした」。そう語るのは、苗床と墓地を管理する常勤スタッフの一人、アブデラヒム・バダーフ氏(36)だ。2012年、ユダヤ教徒コミュニティの賛同を得て、同氏は墓地の隣の土地を耕しながら、聖地そのものの修復にも携わるようになった。仲介役を担ったのは、マラケシュに拠点を置く非営利団体ハイ・アトラス財団(HAF)。技術指導や井戸の建設を手伝い、土地を苗床へと変える橋渡しをしてきた。
荒れ地を「苗を量産できる畑」へと変えた鍵は、水だった。乾いた土地でまず井戸が掘られ、2020年には電機・再エネ関連団体FENELECの寄贈で、太陽光発電を使った揚水ポンプが据えられた。くみ上げた水は点滴灌漑(ドリップ灌漑)で一本一本の苗に必要なだけ送られ、貴重な水を無駄なく行きわたらせる。種や挿し木は黒いシートで覆って地温と湿り気を保ち、発芽を早める。こうした有機栽培の技術を、HAFの研修を受けた地元の担い手が日々支える。バダーフ氏の苗の活着率(根づく割合)は、近年では約9割に達するという。祖父の代からこの土地に暮らしてきた同氏にとって、それは家族の物語の続きでもある。
2012年以来、アーモンド、イチジク、ザクロ、オリーブ、カロブなど約30万本の苗木が育てられ、1,500の農家に届けられた。アクリッシュの苗床はいまや年に約46,000本の苗を生み出す。食料不安や気候変動に直面するモロッコの農村にとって、この若木の一本一本が暮らしを支える糧となる。一方でユダヤ教徒の側も、荒れていた聖地が手入れされるという恵みを受け取る。2023年に地域を襲った大地震ではハコーエンの墓にも亀裂が入ったが、今はていねいに埋め直されている。
HAF代表のユセフ・ベンメイア氏は語る。「私たちは文化的な統合と生計の向上を組み合わせている。そして、それは本当に機能している。互いへの敬意が生まれ、その出会いと交わりが、人々のものの見方を変えているのです」。管理人のバダーフ氏も言う。訪れる人は世界中からやって来て、「ここのユダヤ人の歴史を尋ね、そして私たちのことも尋ねる」のだと。マラケシュのユダヤ教徒コミュニティ代表ジャッキー・カドシュ氏は、この試みを「天才的な発想だ」と評する。「ユダヤ人とムスリムの心を、墓地のまわりで開いている。何世紀ものあいだ、ずっとこうだったのです」。
苗床の開設は、村にさらなる恵みをもたらした。世界中から訪れる人が増えたことで、近隣に女性たちの織物協同組合が生まれたのだ。約30人の女性が働くこの組合(2021年設立)では、苗床で育てた植物などの天然染料で羊毛を染める。もっとも、その出発は平坦ではなかった。女性が家の外で働くこと自体がはばかられる土地柄で、参加した女性たちは当初「型破りだ」と冷たい目を向けられ、厳しい言葉を浴びることもあったと伝えられる。それでも組合は続き、家計を支え、子どもたちの将来につながる収入源となっていった。
この協同組合をめぐっては、女性たちが絨毯の模様にダビデの星や燭台といったユダヤのモチーフを織り込むようになった、と複数の媒体が報じている。報道はこれを、墓地を介して育まれた信仰間のつながりの表れとして紹介する。一方で、本人たちがそこにどんな思いを込めているのか、周囲がそれをどう受け止めているのかまでを丁寧に記録した証言は、今のところ見当たらない。組合長のサミラ・アドリアウシュ氏(34)が語るのは、まず歓迎の姿勢だ。「世界の他の場所で起きていることを、私たちは悲しく思う。でもここでは、どんな立場や信仰の人も歓迎します」。かつて村にいたユダヤ人の隣人を、年配の女性たちは「一つの大きな家族のようだった」と懐かしむ。
この小さな苗床は、もう小さくない。2020年11月には2か所目の「命の家」がアグイム近郊に開かれ、その後さらに2か所が加わった。モロッコ政府も控えめながら資金を出すようになり、各種の認可取得を後押しする。HAFは12州すべてへの展開を視野に、十数か所の候補地を調べている。もっとも、課題もある。数百に及ぶ墓地の多くは土地の所有者や管轄があいまいで、拡大の足かせとなる。地政学の複雑さの前で、こうした草の根の試みにできることには限りもある。それでもベンメイア氏は静かに言い切る。「私たちは一つの共同体ずつ、地道に進めている。そして、確かな手応えを感じているのです」。
祈りによせて
世界のどこかで、信仰の違いが人を分かつ理由にされています。けれどアトラスの麓のこの村では、ユダヤ教徒の眠る土地が、ムスリムの暮らしを潤す泉になりました。死者を悼む場所が、生きる者の糧を生む。失われたはずのつながりが、苗木とともに芽吹き直す。そこにあるのは、大きな宣言でも条約でもなく、土を耕し、苗を配り、安息日には鍬を置くという、日々の小さな約束の積み重ねです。敬意とは、こうした具体的な手の動きのなかにこそ宿るのかもしれません。違いを越えて同じ大地に根を張ろうとするすべての人に、そして一本ずつ植えられていく若木のすべてに、豊かな実りと安らぎが訪れますように。
祈りのワールドツアー・関連ページ
参考・引用元
- Reasons to be Cheerful「The Jewish Cemeteries Giving Life to Morocco's Muslim Communities」(2026年2月、Peter Yeung)
https://reasonstobecheerful.world/morocco-jewish-cemeteries-give-life-to-muslim-farms/ - High Atlas Foundation「House of Life / Lending Land to Enhance Life」公式情報
https://highatlasfoundation.org/about - High Atlas Foundation「アクリッシュ苗床のソーラー灌漑システム稼働」公式情報(FENELEC寄贈・井戸・点滴灌漑の経緯)
https://highatlasfoundation.org/insights/al-haouz-the-high-atlas-foundation-inaugurates-the-solar-irrigation-system-in-the-akrich-nursery - Qantara.de「The High Atlas Foundation's fruit tree nursery project: Muslim-Jewish goodwill blossoms in Morocco」
https://qantara.de/en/article/high-atlas-foundations-fruit-tree-nursery-project-muslim-jewish-goodwill-blossoms-morocco - IDN-InDepthNews「How a Moroccan NGO Provides Services Based on an Ancient Religious Connection」(2025年2月)
https://indepthnews.net/how-a-moroccan-ngo-provides-services-based-on-an-ancient-religious-connection/ - SAIS Review of International Affairs(Johns Hopkins)「Participatory Interfaith Dialogue and Development」(2025年1月、Achbarou女性協同組合の経緯)
https://saisreview.sais.jhu.edu/participatory-interfaith-dialogue-and-developmentthe-keys-to-addressing-peoples-needs-in-morocco/